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【演説館】
林晟一:コンプレックスとダイバーシティ──高校で考える多文化共生

2023/11/17

「社会の縮図」の解像度

勤務校には、日本国籍ではあるがコリア・ルーツの名前の先生がいる。その人は、韓国籍で通称名を用いる私とはちがった生き方をしている。生徒からすれば両者のコントラストは新鮮なようで、相談内容に応じて両人を使いわける・・・・・子だっている。

かたや、筋金入りの愛国者の先生もいる。その先生とは、この9月にベトナム・ハノイの高校から生徒を招いたとき、一緒に汗を流した。生徒たちは日本の大学への進学を見すえ、授業から昼休み、放課後の部活まで、1週間弱を日本の高校生とともに過ごした。

その先生は、東南アジアの人びとが憧れている(かもしれない)日本人の誇りにかけて、在日である私は草の根の多文化共生の一歩として、ベトナムの高校生を歓迎した。

その先生と私は、同床異夢であるかもしれない。けれど、考えがちがう人は敵ではない。むしろ一緒に何ができるかを探ってゆくほうが、やりがいに満ちあふれている。

学校が「社会の縮図」なのだとすれば、生徒だけでなく、教壇に立つ者のルーツ、エスニシティ、性的指向、信条などのダイバーシティも備えなければ、縮図の解像度は低いままだ。

組織がダイバーシティを保障することは、メンバーが抱えてきたコンプレックスをも丸ごと受けとめることと直結する。この点からすると、教壇に立つ者のダイバーシティは、意外なかたちで効果を発揮することがあるかもしれない。

未来の共創

さまざまなバックグラウンドやコンプレックスを持ち、悲喜こもごもの人生経験を積んできた教師に、生徒が美容医療について相談するとしよう。

否定・肯定にとらわれない、色とりどりの考えにふれた生徒は、じっくり将来を見つめられるかもしれない。少なくとも、「美容医療はまだ早い。大人になって考えればよい」といって済ますだけの説諭よりは、胸に響くだろう。成人年齢が18歳に引き下げられた今、高校生の大半は在学中に大人となるのだから。

ただ、教師のダイバーシティを推進してゆくには、まだ時間がかかりそうである。たとえば、公立校の外国籍教員は正規の「教諭」としては働けず、「任用の期限を附さない常勤講師」として教壇に立っている。

このため、日本国籍を持たない公立校の教員は、管理職をめざすことができない。管理職の激務を引き受けたがる教員は、多くないかもしれない。だが、あらかじめ管理職への道が閉ざされていることとは、話の筋がちがう。

教師のなり手不足が広く問題視され、多文化共生が唱えられ、移民の数も増えゆく中、教育に熱意がある外国籍の教員や教員志望者を、いつまで一段下に見ることができるだろうか。

私立高校で歴史を教える外国籍教員の私は、9月、ベトナムからの生徒を迎えた教室で、関東大震災100年をテーマとして授業を行った。1923年、流言飛語と熱狂にとらわれた集団は、朝鮮人や、朝鮮人とみなした人びとを殺した。

授業の後半では、「どうすればみんなで・・・・生きられるか」を念入りに考えた。私、あなた、あの人──みんなで生きてゆく。多文化共生の未来をともに創る「社会の縮図」たる空間は、ダイバーシティが豊かなほうがずっと現実味にあふれる。

これからも生徒にお説教されながら、「縮図」から「社会」を築いてゆきたいなと思う。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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