【演説館】
勅使川原真衣:「競争」ではない何かを残す── 40歳からの終活
2023/07/12
「葛藤」を避けない
言うは易し、行うは難し。「能力」ではなく「機能」を持ち寄って…とは言っても、そう簡単なことではない。これまでの経験を振り返るに、この取り組みの成否を分かつポイントは大きく2つあるように思う。1つは、「葛藤」と付き合い続けることの大切さだ。人と人、人と職務の組み合わせ、すなわち「相性」を考える仕事は、いかんせん扱う変数が多い。よって常に揺らぎの中にあり、そこに対応しようとすることは、泥臭く、終わりがなく、言語化すら容易ではない。しかしこの「葛藤」、いわゆるモヤモヤというのを忌避して、「ウェルビーイング」を唱えても、扶助にはならない。困った時ほど、そのことが起きている「構造」に目をやることでモヤモヤを見つめ直す。本の中では「困ったときは幽体離脱」と書いた。その上で、その構造に、誰かの恣意性や違和感を少しでも覚えたなら、毅然とNOを突きつけたい。
変わるべき「人間観」──「競争」ではない何かのために
また、もう1つ、「競争」から「関係性」へフォーカスをずらすコツがある。それは、自分たち人間をどういう存在として定義づけるか?に拠るところが大きい。我々は「自立した個人」であり、その者同士が生存をかけて「競争」する──そう我々はあまりに長らく、繰り返し聞かされてきたため、すっかり信じ切っているようだ。しかしこれは、いかほど現実味があろうか。
つい先日成立した「こども基本法」にも「全ての子供が~(…)~自立した個人としてひとしく~」とある。もっと言えば、そもそも、教育基本法の第1条(教育の目的)は「教育は、人格の完成を目指し」とある。「人格の完成」や「自立」とさらりと言うが、中身はあやふやなまま、途轍もない目標がよくも立てられたものだ。今こそ、私たちという存在の「前提」、つまり「人間観」は、現実に照らし合わせて刷新されるべきだ。人間とは一体何なのだろう。人の「格」が「完成」するとは?人が自分の足だけで立つ状態とは? 私はこう考える──誰しも(教育基本法とは違って)永遠に未完で、弱い。だから助け合う。恥ずかしながら大病をしてはじめて気づかされた。誰一人として「完成」も「自立」もしてはいない。「人間観」はあらゆる社会システムの根源中の根源にあたる。今こそ前提からぜひ見直されたい。
いつの日か……ではだめだ。過去最高の子どもの自殺数、将来子どもを持ちたくないと考える若者が少なくないことを示す調査結果……彼ら・彼女らに、明るい未来を見せてあげられていないことは明らかである。今以上「競争」して頑張り続けることは、ますます短絡的な「勝ち負け」や「答え合わせ」が社会を席捲してしまうように思えてならない。「論破」や「タイパ社会」は、わかりやすい一例だ。
政治をすぐに動かせないとしても、今この瞬間から、会話の仕方は変えていける。弱いから助け合うのだから、人が人を試すような会話は終わりにする。「それってあなたの感想ですよね?」なんてSo what? である。まとまらぬ考え、言葉にならぬ想い。これらを遮ることなく、耳を傾け合う。いつもいつも面白くなくていい。感動する話ばかりしなくていい。鋭くある必要もないし、端的でなくても的外れだってかまわない。生きて、そこに私とあなたがいてお話をしている。これが最高にうれしく、尊い。老婆心だが、このような対話は、2倍速で映画やドラマを観ている人には難しいかもしれない。結果ではなく過程の価値を、幼いうちから味わう必要があろう。家庭や教育現場が「成功」のための次なる「能力」開発に躍起では、厳しい。「今、ここ」を味わい、何ができるか(=「能力」)ではなく、ここに在ることそのものを喜び合う実践。「欠乏」を埋めることはもはや「成長」ではない。
ここまでお付き合いくださったことに深く御礼を申し上げる。人の「能力」ではなく、発揮しやすい個々人の「機能」・「持ち味」の見極めと、その組み合わせ方の探究こそが進むよう、ゆうれい母さんは今日も行く。「リスキリング」や「人的資本経営」などが脚光を浴びているが、変わったのは言葉尻だけで、内実は新型「能力」論になっていないだろうか。個人に閉じず、人と人の関係性に焦点が当たったものになっているか、今一度点検されたい。「能力主義」のような巨人は、私たち自身の価値観が生み出した怪物でもある。みんなで生み出したことなのだから、みんなで片を付けて、次世代には希望を残したい。その暁に、ゆうれい母さんは成仏されるのだろう。
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。
カテゴリ | |
---|---|
三田評論のコーナー |