三田評論ONLINE

【演説館】
吉原直樹:ポストコロナ時代の移動のゆくえ

2022/11/21

「未来」の鍵となる「コネクティッドなもの」

これまで、パンデミックとともに、監視という形で綴られる、移動をめぐる一つの社会のありようをみてきたが、同時にその黙示するものに迫ることによって、「未来」につながるもう一つの道筋がみえてくる。まさにアーリのいう「未知の未知」(unknown unknowns)をさぐる作業に入るわけだが、それは高度に抑圧的な生政治を別の視点でとらえ返すことでもある。そこでは、何よりも情報が多方向的にボーダレスに移動する過程において、生存のための産業と自然環境の維持、つまり持続可能でエッセンシャルなもののつきあわせとシェアリング(共有)を通してはぐくまれる、人と人との間の「コネクティッドなもの」(むすびつき)の形成を見据える必要がある。

そうすることによってデータの専横的な一人歩きが回避され、人びとがディスポーザルな(使い捨てられた)状態に追いやられることを防ぐ道筋がみえてくる。そして先に言及したリモートワーク、オンラインショッピング、オンライン学習がただ「モノ」としてデジタル・スケープに埋め込まれるのではなく、真に他者と対面するための第一次的な共有の場(コモンズ)を構成し、文字通り、貴重なライフラインとなることが展望できるようになる。

ちなみに、パンデミックの初期に取り沙汰されたソーシャル・ディスタンスは、厳密にいうと、フィジカル・ディスタンスの言い間違いであるが、この誤用がかえってパンデミック下の移動のありようを示していて興味深い。パンデミックは普通に理解すれば、移動を止めることによって日常的な人びとの交流を制限し、人と人との間の物的距離を広げたということになる。しかしそれをソーシャル・ディスタンスに読み替えてみると、人と人の間に生じる距離は、デジタル技術による移動の追跡(監視)によってもたらされたものであり、人と人との隔たりをむしろ埋めるものとしてあったとも解釈できる。つまりここでは移動がなくなったのではなく、移動を管理すること(それも差異化をともないながら)が前面に立ちあらわれたのである。この〈あいだ〉のもつ機能は、パンデミックが「グローバル」=「バイラル」(viral)であることから必然的に生じたものであるが、いずれにせよ、パンデミックが移動を止めたというのは、もはや俗説にすぎないといってよいだろう。

それでは、こうした〈あいだ〉の持つ機能は、「未来」においてどうなるのであろうか。今後いっそうデジタル化がすすむことを想定するなら、「いま」みられる上記の〈あいだ〉は、先に言及したようなモビリティ・シフトがすすめばすすむほど、よりフレキシブルなものになるだろう。それが先にみたような人と人をつなぐ「コネクティッドなもの」を担保するようになるかどうかは、ここでは言明できないが、そうした可能性を閉ざしたトランジション・シティがもはや考えられないことはたしかである。

コモンへのまなざしへ/から

パンデミックの「いま」がポストコロナ時代にどう引き継がれていくかは、結局のところ社会的過程としてのデジタル化に規定されるところが大きいと思われる。それゆえ、新しいデジタル技術の両義性とそこに深く足を下ろした移動のありようから目が離せない。またそうしたものを大枠として方向づける国家とプラットフォーム企業のコラボレーション(協調体制)の動向も無視し得ない。

それはパンデミックの初期に取り沙汰された国家の役割の拡大(=「再公営化」)のコンテクストでいわれたものとは微妙に違っているようにみえる。むしろ指摘されるようなコラボレーションは、パブリックよりはある種のコモン(共)へのまなざしを強めているようにみえる。もしそうだとすれば、このコモンへのまなざしを上記のコラボレーションのループ(輪)から解き放ち、生存のために人間が共有する産業と自然環境からなるグローバル・コモンズへと誘導する必要があろう。

いまさら指摘するまでもないが、トランジション・シティがめざす「未来」は「いま」の単なる延長線上にはない。しかし「いま」と「未来」を通底するデジタルというキーノート(基調音)のうえにあることもまた否めない。そこに深い影を落としているのが、みてきたようなモビリティ・シフトである。それはきわめて錯綜している。だから、そうした状況のなかでトランジション・シティを明確な像をもって示すことは至難の業であるといわざるを得ない。それは「未来」への扉に手をかけながら、技術への絶対的な信仰にもとづく楽観主義に対して距離を置く、「シティ・オン・ザ・ムーブ」(移動中の都市)としてある。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

カテゴリ
三田評論のコーナー

本誌を購入する

関連コンテンツ

最新記事