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【Researcher's Eye】
丸島 和洋:徳川家康と大坂の陣

2025/07/16

  • 丸島 和洋(まるしま かずひろ)

    東京都市大学共通教育部教授
    専門分野/歴史学、日本中世史

現在の国際情勢は、安定とはほど遠い。しかし、「いつから、なぜ不安定化したか」を考えると、すぐに答えは出ない。同時代に生きる人々にとって、いつが転換点であったのか、何が原因であったのか、容易にわかるものではない。

戦国時代・戦国大名を研究しているというと、織田信長や豊臣秀吉の事績についてよく尋ねられる。その会話は楽しいが、戦国時代の本当の魅力は、中世という暴力による解決を当然視する時代から、暴力行使に抑制的な近世という新たな時代に移り変わる、その変化を考察できる点にある。

ただともすれば、「整然としたストーリー」を描きそうになる。学問は論理的な営みだが、実際の人の動きはそうではない。日吉で学んだ政治学で、もっとも記憶に残っているテーマは「人間は常に合理的行動を取るか」であった。

以下では、江戸幕府が豊臣秀頼を滅ぼした大坂の陣を見直してみたい。実は徳川家康は、はじめから豊臣秀頼を滅ぼそうとしていたわけではない。秀頼には大坂城を出て、集めた牢人を解散し、大和(奈良県)へ移ってほしい、そのうえで江戸幕府体制下の一大名に落ちついてもらいたいと考えていたようだ。なお大和は、かつて秀頼の叔父豊臣秀長が治めた国で、豊臣ゆかりの地といえる。悪い条件ではない。

ところが家康の意図は、豊臣秀頼と生母淀の方に通じない。若い秀頼は周囲の過激派に引きずられ、幕府との講和を取りまとめようとしていた穏健派を追放してしまった。交渉責任者の追放は、現代で言えば大使館閉鎖だ。家康の眼には外交拒絶と映るし、秀頼も慌てて弁明をしている。つまり大坂冬の陣は、家康すら望まない形で始まったともみなせる。

だから講和交渉は冬の陣後も続いた。夏の陣直前、秀頼母子は、家康の要求を受け入れようと決断する。しかし講和条件の根幹である牢人解散を実施できない。牢人の突き上げを抑えられないのだ。秀頼に当事者能力なしと判断した家康は交渉を打ち切り、夏の陣において豊臣家を滅亡させる。

しかし秀頼切腹は家康の命令ではない。2代将軍徳川秀忠の指示である。家康は決断を息子に委ね、「逃げた」のだ。

大坂の陣・豊臣秀頼滅亡の過程からみえてくるのは、誰の思惑通りにも進んでいないという実情だ。分かりやすい回答を求める姿勢こそが、もっとも忌避すべきものなのだろう。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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