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【Researcher's Eye】
熊谷 直哉:見えないものをつくる

2025/06/16

  • 熊谷 直哉(くまがい なおや)

    慶應義塾大学薬学部教授
    専門分野/有機化学

私は有機化学、つまり、生命体の基本材料を形づくる炭素が主役の"分子の化学"を専門にしています。分子は小さいので、当然見えません。私たちの身の回りのものの10億分の1程度の大きさで様々な分子はできあがっています。分子は、原子が三次元空間で特定の結合様式をとった構造体で、それぞれ特有の性質・機能を示す最小単位とも言えます。生命を形づくる有機分子は通常、水素・炭素・窒素・酸素・リン・硫黄程度の限られた原子から構成されていますが、登録されているものだけでも1億種以上、理論上つくれるもののヴァリエーションは天文学的数字になるとも言われています。

ところでメラビアンの法則によれば、ヒトがコミュニケーションにおいて影響を受ける強さには言語情報7%、聴覚情報38%、視覚情報55%の序列があるとされています。さて、分子はもちろん喋りません。立体構造である分子を計算機が認識できるような言語情報で表記することも可能ですが、ヒトが見ても何も感じない記号の羅列です。となると、幸いにも最も抜群な視覚情報のみで分子対象を認識することになりますが、果たしてこの目で見る分子構造も正しいと言えるのでしょうか。我々有機化学者は、いつも分子構造とにらめっこして過ごしているので、いろいろな分子は話し相手のようなものです。このコミュニケーションには視覚情報しか介在しないのに、そこに「あなたは本当にあなたですか?」という雑念がうごめき始めます。例えば、元素記号が棒で結ばれて"結合"を示している、いわゆる分子構造を見たことがある方もおられると思いますが、本来原子の間に棒はありません。元素のラベルがついているわけでもありません。これらはフィクションです。実際には、分子の違いは原子核と電子の存在確率にあるだけで、さらには原子の違いも原子核の陽子数が違うだけです。建築家は思い描いた建造物を目の前に具現化することができますが、我々が頭で思い描いている分子構造は実際の像とは結局程遠く、視覚では感知できない代物です。有機化学は、ほぼ無限の分子構造体を自由につくる、すなわち宝を掘り起こすのではなく自ら生み出すことができる自由な学問です。我々が創造したつもりになっている分子は結局どんな姿をしているのか、恋い焦がれても届かないような感覚で日々分子を追い求めています。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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