【Researcher's Eye】
井上 櫻子:『百科全書』を読む喜び
2025/03/12

この数年来、18世紀フランス知の集大成ともいうべき『百科全書』(1751-1772刊、本文17巻、図版11巻、のち補遺・索引の追加あり)に収められた無記名項目の典拠研究に携わっている。特に筆者が関心を寄せているのは、ジャン=フランソワ・ド・サン=ランベール(1716-1803)という18世紀には絶大な人気を誇りながらも、時の流れとともに忘れ去られてしまった作家、詩人の執筆項目である。サン=ランベールは国王軍に属する軍人貴族でもあったから、王権や教権に批判的な記述も含まれる大事典に寄稿するにあたり、匿名を貫いた事情は想像に難くない。
『百科全書』は、1757年、国王暗殺未遂事件勃発という当時の政情不安を受け、第7巻の刊行をもって禁書処分になるものの、読者の支持を得て1765年に非合法裡に本文の残りの巻が出版されるという経緯をたどった書物である。興味深いのは、その社会的な立場を踏まえれば、刊行企画への協力に慎重な態度を示すであろうサン=ランベールが、むしろ第8巻以降に政治、経済、道徳論関連の重要な項目を複数寄稿していることだ。これらの項目の関連性は、一読しただけではよくわからない。しかし、これらの項目とサン=ランベールが手にしたとおぼしき同時代の書物とを突き合わせながら読み進めてみると、サン=ランベールの執筆項目のいくつかが、エルヴェシウスの『精神論』(1758刊)の影響を受け、その弁護を試みたものであることが明らかになってくる。
『精神論』は、人間の精神的営為がすべて物理的感覚に由来するという急進的な唯物論を説いた書であり、反宗教運動に関連する著作として焚書処分に処せられた。とはいえ、本書には近代民主主義の成立につながりうる数々の議論が展開されているのも事実である。人間知性が生まれながらにして皆平等であり、公教育によって鍛えられうるという主張、あるいは個人の利益と公共の利益の幸福な融合は可能であるという功利主義的な発想はその例である。
フランス革命勃発よりも二十数年前に刊行された大事典の匿名の項目に、人々の心性の変化がくっきりと浮かび上がってくる瞬間は、文献研究を進める者にとってのささやかな喜びの瞬間である。
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。
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井上 櫻子(いのうえ さくらこ)
慶應義塾大学文学部教授
専門分野/18世紀フランス文学・思想