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【Researcher's Eye】
細坂 泰子:駅のホームで

2024/11/19

  • 細坂 泰子(ほそさか やすこ)

    慶應義塾大学看護医療学部教授
    専門分野/母性看護学、助産学

帰宅途中、ある駅で電車を待っていた。ホームでは乳児をベビーカーにのせた母親が4~5歳の長子と思われる男の子を叱っていた。聞くともなしに話を聞く限り、出かける前に何度も「トイレは大丈夫?」と聞いたのにその時は「大丈夫。行かない」と言い張り、家を出る直前にトイレに行きたいとなったことから、乗る予定だった電車を乗り遅れたことで母親の怒りに火が付いたようだった。母親は強い口調で男の子を叱り、男の子は「ごめんなさい」と謝り、それを繰り返した挙句、母親は男の子を蹴った。

私はどうすればよかったのだろう。母親が子どもを叱っている間、ずっと考えていたのに良い方法が浮かばなかった。子どもに「もうしないよね、今度からトイレに行けるよね」と言っても、母親に「もうお子さんは反省してるから許してあげて」と言ったとしても、火に油を注ぐ気がした。母親に「育児は大変よね、2人も育てているなんてすごいわね」と言ってみるのはどうだろうと考えたが、気味の悪いおばさんだと無視されるのではないかとも思った。私はあの場で第三者としての道徳的責任を放棄してしまった。

母親の行為はしつけを逸脱しているように見えた。その親子の背景はまったく分からない。男の子は同じことを何度も繰り返していて母親の堪忍袋の緒が切れたのかもしれないし、いつもはとても優しい母親だけど、この日は何か嫌なことが重なってイライラしていたのかもしれない。それでも子どもを蹴ることは許されることではない。

母親の育児の実質的な負担と負担感を減らすにはどうすればよいのだろう。経済的な支援や育児サポートを増やして母親1人で育児を抱えないようにするのは効果があるだろう。母親のモデルとなりうる教育的介入も必要かもしれない。育児は家庭内で行われ、通常は他者が見かけることはできない。それは育児を変革する際の大きな支障の1つだ。それでもどこかで私たち周囲が誤った育児実践を見かけた時にどうすればよいのか、その方法を探る必要があるように思った。

もう許してあげてほしいと心の中で祈りつつ、行き先が違う電車を待っていたこともあって、何もできずにその親子と別れた。あの男の子が夜寝る前に、母親にぎゅっと抱きしめられていますようにと願った。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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