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【Researcher's Eye】
上枝 美典:安全な夢

2024/07/09

  • 上枝 美典(うええだ よしのり)

    慶應義塾大学文学部教授
    専門分野/西洋哲学史(中世)

何度も繰り返して同じ文字を書いていると、そのうち、それが文字でなくなり、意味をもたないたんなる模様に見えてきます。ゲシュタルト崩壊と呼ばれる現象で、この場合には、文字から意味や音声が剥落して2次元の奇妙な模様だけが残ります。同じように、(ちょっとした訓練が必要ですが)目の前の風景をゲシュタルト崩壊させると、現実世界からその現実性が剥落し、ただの感覚的な性質だけが残ります。哲学の世界では、古代から現代に至るまで、この感覚的な性質のことを、表象像や現象やクオリアと呼んで、研究の対象としてきました。

日常的には、感覚的な性質はそのまま世界の姿を伝えていると見なされています。しかし現実世界の中に、特定の視覚システムから独立して「赤い」という性質があるわけではありません。赤い色は、人間の視覚システムによって、人間の心の中に生み出された表象です。どうして心が表象を生み出すことができるのか、という超難問は今は措くとして、どうやって表象を現実に結び付けることができるのでしょうか。

この問題は、どのようにして、2人の人が別々に見ている2つの夢を、相互に関係させることができるか、という問題に似ています。そんなことはできっこないと思われるのですが、驚くべきことに、私たちは、現に、実在と表象を結び付けることに成功しています。共同生活を送ることができるのは、人類がすでに、2つの夢を関係させることに成功したことを示しています。

人間の意識がいくつあろうとも、それらはすべて独立していて、各自が人生という長く壮大な夢を見ているだけだと考えたり(独我論)、それぞれの意識内容が、神によって調和するように調整されていると考える(予定調和)のでない限り、私たちの表象世界は、現実世界と連動しています。しかし一体どうやって?

夢を現実だと見なすことは危険です。しかし、表象を現実だと見なしても問題ありません。言ってみれば、私たちは「安全な夢」を見ているのですが、どんな仕組みでどうやって、そんな安全性が手に入ったのでしょうか。人類がこの謎を解くために、哲学の方面からも貢献したいと思っています。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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