三田評論ONLINE

【Researcher's Eye】
ジョン・アートル:三田の縄文家屋

2024/04/10

  • ジョン・アートル

    慶應義塾大学経済学部准教授
    専門分野/文化人類学、民俗学

私は数年前から先史時代の竪穴住居について文化人類学的に研究している。現在は縄文時代中期の遺跡を発掘し、様々な復元デザインを調べ、過去にあり得た道具や材料を使い復元竪穴住居を建設している。戦後、全国で600以上もの先史時代の復元住居が作られている。日本史の教科書の1ページ目を開けば、それがどんなものか知ることができる。しかし、実際の縄文時代の竪穴住居がどのようなものだったか、誰もはっきりとは知らない。そのため現代の復元事例はすべて、建てた人々の現在の立場を反映した「想像復原」と言える。

慶應義塾大学が関係した復元例を挙げよう。2018年に東京に越してきた私は、三田キャンパスに近い三田台公園の隣に居を構えた。三田台公園は伊皿子貝塚の発掘をきっかけに1978年に整備された公園で、その一角には円錐形のコンクリート製復元縄文住居がある。後に、これは慶應義塾大学の故鈴木公雄教授が設計したものだと知った。この住居の中には夫婦と子ども2人の等身大模型があり、毛皮をかぶって様々な仕事をしている。このような「縄文家族」の展示は他の遺跡でも見られる。仮に母親の隣にキッチンカウンターが置かれ、子どもと父親の前にこたつがあれば、一瞬にして昭和の家族に変身するのではないだろうか。

考古学上、縄文時代の竪穴住居に核家族が住んでいた証拠はない。人類学者の私からすれば、世界中に見られる親族関係や居住形態の多様性を考えると、縄文時代の家族が東京都心の昭和のモデル家族と同じだとは考えられない。民族学考古学専攻の教員だった鈴木教授はこの問題を理解しており、いくらでも代替案を提示できただろう。しかし、現在に至るまで、縄文時代の家族を、例えば一夫多妻制として、あるいは同性同士の同居として描いたケースはほとんどない。結局、縄文人の家族を身近なものにしようとするほど、私たちは縄文人の中に「自分自身を見る」ように促されるのである。

もし縄文人が髭を剃らず、傷だらけで、全身刺青の姿で描かれていても、私たちは彼らを祖先として受け入れるだろうか? 復元住居が粗末でみすぼらしい作りのなかに、母親と子どもたちだけの住まいとして展示されていたら、日本史の教科書の冒頭に登場するだろうか? 私たちは、現在の価値観やものの見方を過去に投影してしまうのかもしれない。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

  • 1
カテゴリ
三田評論のコーナー

本誌を購入する

関連コンテンツ

最新記事