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【Researcher's Eye】
瑞慶山広大:条文の読み方の教え方

2024/01/18

  • 瑞慶山 広大(ずけやま こうだい)

    九州産業大学地域共創学部
    講師・塾員 専門分野/憲法

私の所属は法学部ではない。当然、学生も法学だけを学びに来てはいない。そんな学部の1年生向けに法学の入門講義を担当している。講義内容の中には六法(法令集)の読み方を含めており、基礎から丁寧に教えているつもりだ。「各条の中にある算用数字の部分は『項』、漢数字の部分は『号』です」「条文中に『ただし、』が登場したら、その前の部分を『本文』、それ以降を『ただし書き』と呼びます」云々。よし、これで本格的な法律科目を履修しても困ることはなかろう。そう思って六法持込可能の期末試験で問う──「民法〇条〇項本文を引用しなさい。」が、相当に出来が良くない。「本文」と聞くと日常的にそこの文章すべてと思ってしまうようだ。学生の勉強不足と簡単に片付けて良いものだろうか。

振り返ると私は法学部生の頃に条文の読み方など教わったことはない。いつの間に読めるようになったのか。思うに、六法の読み方は知識として習得するのではなく、技術として習熟することが大切である。再び振り返ると、学部時代の先生方の多くは自ら六法を開き、参照すべき条文を示し、しばしば音読されていた。未熟者の私は必要ならレジュメに引用しておけばいいのにと感じていたが、あれは学生に寄り添って条文の読み方を教えてくれていたのだ。実際、私はそうやって条文が自然と読めるようになった。知識ではなく技術を伝えるには繰返し作業が効果的である。であれば、教員となった私に必要なのは、面倒がる学生を横目に、それでも六法の読み方を実践してみせる授業なのだろう。

大学で学ぶ専門性の一端はこうした技術や言葉遣いへの感性に宿るように思う。それは卒業後に専門から離れた環境にいても、自転車の乗り方のごとく忘れがたい。真面な法学徒であれば、裁判の「判決」と「決定」の違いに意を払うし、「民事訴訟の被告人」というフレーズに違和感を覚えずにはいられない。

他方、技術や感性は部外者からは見えづらい。とりわけ、専門性がますます分化し、研究がグローバル化した現在では、学問分野間の対話障壁は高くなっている。非法学部で法学の教鞭をとることの効用の1つは、法学で当然視されている技術や感性を否応なく可視化できることである。非法学部という環境から法学者が学ぶことは少なくない。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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