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【Researcher's Eye】
勝沼聡:アラブとトルコのはざまで

2023/04/15

  • 勝沼 聡(かつぬま さとし)

    慶應義塾大学文学部准教授
    専門分野/アラブ近現代史

今年2月トルコ南東部を震源地に発生した巨大地震は、トルコとシリア両国に甚大な被害をもたらした。その惨状は「地震大国」日本列島に暮らし、東日本大震災を経験した我々にとって他人事ではなく、国ごとの詳細な被害状況が明らかになるにつれて、胸を痛めた人も多かったことだろう。

両国もその一部である中東地域は、アラブ・トルコ・ペルシアの3つの文化圏からなる。トルコは、その名の通りトルコ文化圏の中心地であり、正式国名に「アラブ」を冠するシリアは、アラブ文化圏に属する。一見すると両国の国境線はそのまま、両文化圏の境を示しているようにも見える。しかしこの国境線は、今からわずか100年ほど前、第1次世界大戦後に英仏が主導して引かれた新しいものである。そこに至るまでの400年間、現在のトルコとシリアはともに環地中海世界の大半を支配したオスマン帝国に属しており、両者の差異は今よりもっと曖昧であった。

とりわけ、今回の地震で大きな被害を受けたシリア北西部は、大戦前はトルコ文化圏と強く結びついていた。当地では16世紀以来トルコ語が広く話され、トルコ系の人々との通婚も珍しくなかった。さらにシリア北西部の人々は、経済面でもトルコとの間に強い結びつきを持っていた。彼らにとって、トルコは主要な市場であると同時に原材料や食料の供給地であった。また、深刻な被災状況が伝えられたトルコのハタイ県には港町イスケンデルン(アレクサンドレッタ)があるが、同港は1930年代末にトルコに割譲されるまでシリア北西部の主要都市アレッポと地中海を結ぶ玄関口だった。

トルコとの結びつきは、大戦後にシリア北西部で勃発した対仏反乱(1919~21年)の経緯にも見出せる。この反乱を率いたアレッポ近郊出身のオスマン官僚イブラーヒーム・ハナーヌーは、当時シリア南部を拠点としていたアラブの名家ハーシム家のファイサル(映画『アラビアのロレンス』にも登場する)ではなく、アナトリアで独立戦争を戦うトルコ建国の父ムスタファ・ケマル(アタテュルク)と主に連携しながら、シリアに進駐するフランス軍と対峙した。シリア北西部が、現在のようにシリアあるいはアラブと結びつきを強めるのは、反乱鎮圧後のフランス委任統治時代以降のことである。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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