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【Researcher's Eye】
上野大輔:遥かなる「近世」

2022/07/14

  • 上野 大輔(うえの だいすけ)

    慶應義塾大学文学部准教授
    専門分野/ 日本近世史

よく知られているように、日本史は古代、中世、近世、近代の4つの時代に区分されることが多い。私の専門とする近世は、一般に安土桃山時代から江戸時代までを指す。

このような時代概念としての「近世」を唱えた先駆的成果として、内田銀蔵『日本近世史』(冨山房、1903年)が挙げられることがある。内田は明治・大正期の歴史学者であり、京都帝国大学などで教鞭をとった。京都大学の研究者は内田を高く評価する傾向があるように見受けられる。

一方で、同書の「近世」は、今日でいう近代の意味であり、「近世」の次に配される「最近世」は現代の意味であるとして、同書の画期性をあまり評価しない立場もある。この立場を念頭に置くと、20世紀を通じて「最近世」が近代という時代概念として明確化され、その前の「近世」が近代とは異なる時代像を豊かに結んでいく過程が重要となろう。

とはいえ、そもそも日本語の「近世」には、現在に近い世の中という意味がある(『日本国語大辞典』)。近代という時代が、明治から数えると150年を上回るに至った今日、近世はもはや近い世の中ではなくなっていよう。国家や社会の在り方、人々の生き方も大幅に変容している。

文学史の時代区分で上古、中古、近古、近世というものがあり、近古は鎌倉時代から室町時代までを指す。私の感覚では、安土桃山時代から江戸時代までは、近世というより近古といった様相を呈している。近いようで遠い時代である。

1970年代頃からは、1945年の日本の敗戦以降を現代として、近代と区別することも多くなった。1960年代に有力だった、日清・日露戦間期以降を現代とする見方は失われていった。国民国家・資本主義・市民社会の時代ということで、現代を含めて近代と見なすこともある。

そのような近代はしばらく過ぎ去らないとしても、現代の始まりをいつとするかは変わっていくだろう。今日では、高度経済成長を経験した1960年代以降を現代としても、差し支えないように思われる。あるいは、IT革命が叫ばれた1990年代末からが現代かもしれない。

今後、日本史研究の既存の枠組みも、一層揺らいでいく可能性がある。そうした中で「近世」は、その名称を含めて、どのように語り直され、継承されていくのがよいだろうか。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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