三田評論ONLINE

【Researcher's Eye】
菅谷麻衣:表現の自由の現代的"転回"?

2022/02/11

  • 菅谷 麻衣(すがや まい)

    拓殖大学政経学部助教・塾員
    専門分野/ 憲法学

「ポルノグラフィーは差別行為だ」という言説との出会いが筆者の研究の端緒である。高校生だった当時、表現であるはずのポルノグラフィーを行為と言ってのける根拠は何だろうと不思議に思ったのだ。

周知の通り、「表現の自由」は憲法によって手厚く保障されており(21条)、表現規制に対しては厳格な審査を適用する、というのが憲法学のお約束である。しかし同時に、憲法は「法の下の平等」も保障し、性差別を禁じている(14条)。つまり、憲法学からすると、先述の言明はポルノグラフィーを差別行為と認定することで、脱「表現」化し、表現規制に対する厳格な審査を回避しようとする試みと読むことができる。そこには憲法の保障に値するのは、一定の性質を伴う(伴わない)表現行為なのだ、という含意がある。

もっとも、こうした思考は従来の表現の自由法理に対する理解と矛盾しないのか。そもそも、当該法理は、20世紀初頭の米国で第一次世界大戦を批判する表現規制の合憲性が争われるなかで、「権力のない者の盾」として確立された。かかる経緯により、政府による表現規制――とりわけ、表現の内容に着目する規制――に対して、憲法学は極めて慎重な姿勢で臨んできた。政府の介入を防げば、自由な表現の流通が達成される(思想の自由市場)、というわけである。

が、近年では、こうした見立ての限界が指摘されている。1980年代後半以降の米国では、ヘイトスピーチ規制をはじめとしたマイノリティ救済のための表現規制が政府による思想の自由市場への介入として違憲無効とされる一方で、巨大資本による政治献金が「表現」として保護される傾向が生じたからだ。これを問題視する学者によると、実社会の権力構造を捨象し、現状の思想の自由市場を中立とみなすことで、既存の権力秩序の再生産が生じている。今や表現の自由は「権力者の武器」と化した、と。

このような表現の自由の現代的"転回"が生じているのか、それ自体検証を要することではあるが、思想の自由市場の成立条件(中立性と政府の介入、そして流通させるべき「思想」と他の行為の峻別)を改めて問うべき時が訪れているのではないか。筆者としては、かかる問題意識のもと、今後も冒頭の言葉と向き合っていきたい。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

  • 1
カテゴリ
三田評論のコーナー

本誌を購入する

関連コンテンツ

最新記事