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【Researcher's Eye】
米と異邦人

2021/03/10

  • 難波 ちづる(なんば ちづる)

    慶應義塾大学経済学部教授
    専門分野/フランス植民地史

私は食べることが好きだ。フレンチもイタリアンも中華もエスニックも全部好きだが、とりわけ和食が好きだ。かつて留学していたフランスの街では、地方都市だったこともあり、なかなか和食の食材が手に入らず、小さなチャイナタウンで購入できるものでなんとかしのいでいた。色々な種類の米を試してみたが、大量の小さな虫の死骸が混入していたこともあり、おいしく安全な米を見つけることは、私にとって重要な問題であった。あるとき近所の普通のス―パーで、「カマルグ米」というものを買ってみた。ほかの米より少し高かったが、これが、日本の米のようにやや粘り気があり、おいしかった。なによりもどこのスーパーでも簡単に手に入るのだ。私の米問題は解決した。

何年かして日本に戻り、私は、第2次世界大戦期にフランスに連れてこられたベトナム人労働者の研究に取り組み始めた。ベトナムは、19世紀後半からフランスの植民地支配下におかれていた。開戦直前に約2万人のベトナム人が、軍需産業で働くために動員されたのだが、フランスはドイツにあっという間に敗北し、戦争が終わったために、早々と用無しになってしまった。とはいえ、フランス政府は彼らを放置することもできず、管理しつつなんとか活用しようとした。彼らの多くは主に南部に収容され、様々な労働に従事させられた。そのうちの1つが稲作だった。

彼らの大半はもともと農民であり、稲作はお手のものである(と考えられた)。そこで、一部のベトナム人は、南部のカマルグという湿地帯で米を作らされることになったのである。昔からこの地方では稲作が行われていたのだが、植民地ベトナムからの安価な米の流入によって、すっかり廃れていた。彼らのおかげで、この地の稲作は復活し、そして今でもフランス最大の稲作地帯として、米難民の私を救ってくれたおいしい米を作り続けている。

ベトナムからの米の輸入によって廃れていた稲作を、そのベトナムから来た労働者が復活させたというのはなんという歴史の皮肉だろう。フラミンゴが佇み、飛び交う美しいカマルグで、彼らが想いを巡らせていたのは、この地に水田を復活させる使命についてだったのか。それとも遠く離れた家族のことか、あるいは祖国のゆくえについてだっただろうか。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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