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【Researcher's Eye】
田舎と文学:近代の眼差し

2020/12/14

  • 西尾 宇広(にしお たかひろ)

    慶應義塾大学商学部准教授
    専門分野/近代ドイツ文学

はじめに、ドイツにまつわる小話を1つ。日本でもファンの多いイギリスの作家ジョン・ル・カレは、冷戦時代の旧西ドイツを舞台とするスパイ小説『ドイツの小さな町』の冒頭で、その首都ボンを「首都村(capital village)」と呼んだ。これはもちろん誇張まじりの皮肉だが、もとよりこの国の地方的な性格・・・・・・にはそれなりの歴史的経緯がある。19世紀末まで統一国家が存在せず、複数の領邦国家が乱立していたドイツ語圏には、長らく東京やパリのような文化と政治の中心地が欠けていた。いうなれば「小さな町」や「村」が遍在するその時代に、1つの興味深い文芸ジャンルが誕生する。「村物語」と呼ばれたその一連の物語群は、19世紀文学の代表格である都市小説に逆行し、偏狭な片田舎に生きる農民の暮らしに光をあてて、ヨーロッパ全土を巻き込む巨大な流行現象へと結実した(ご関心の向きは、近刊予定の拙編著『西洋村落譚』をご覧ください)。

ドイツ語圏の「村物語」は、狭く限定された地方の生活を広範な読者層に語り伝え、将来の国家統一に向けた共通の国民精神の涵養(かんよう)をめざすジャンルだった。いきおい、そこには都会の視点から農村の旧弊を批判する趣も見られるのだが、そうした傾向も時代とともに変化する。この国にもやがて産業化と都市化の波が訪れると、文明的な喧騒のなかに生きる都市住民が、今度は田舎のスローライフに憧れを抱くようになったのだ。都会への反発を梃子とするそうした動きの典型例は、たとえば世紀末に興った「渡り鳥(ヴァンダーフォーゲル)」や「郷土芸術運動」であり、その流れはやがてナチス・ドイツの農本主義的なイデオロギーにも合流していくことになる。人々の生活拠点を少数の都市部へと集中させる近代化の過程の舞台裏で、田舎の現実はときに牧歌的に理想化され、ときに中央からの搾取を正当化されて、歪曲の憂き目を見てきたのだった。

さて、そんなことを考えながら、最近はコロナ禍で遠隔業務がデフォルトになったのを機に、地方への移住希望者が増えているという話を聞くと、少々複雑な気持ちになる。田舎から都市へと向かう近代の一般的な人口移動の流れがついに逆転するかと思いきや、本質は何も変わらないからだ。それは、近代の都会が田舎に向けてきた一方的な願望の眼差しを現実化し、物理的に反復する試みにすぎないのである。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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