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【Researcher's Eye】
水都大阪の舟運と渡し船

2020/12/10

  • 北原 聡(きたはら さとし)

    関西大学経済学部長、同教授・塾員
    専門分野/ 近代日本経済史

大都市大阪で渡し船が活躍していることをご存知だろうか。過去の交通手段と思われがちな渡し船だが、大阪市では市営の渡船場が8カ所あり、無料で利用できる。観光用ではなく地域の人々のための現役の交通手段である。しかも、橋が架けられ廃止されることが多いなか、大阪市の渡し船は8カ所のうち4カ所で架橋後も存続している。これにはどのような背景があるのだろうか。近世まで時代をさかのぼってみていこう。

16世紀後半から17世紀にかけて形成された大坂の市街地には、多くの堀川が開削され、沿岸海運と河川舟運からなる物流の中心として、淀川とともに重要な役割を果たしていた。「天下の台所」大坂が「八百八橋」と言われた所以である。こうした都市内水運は近代以降も発展的に継承され、工業都市大阪の発展とともに、大川や安治川、木津川など淀川下流の沿岸部には大小各種の工場が立地して、原料や製品の集散に舟運が活用された。そして、舟運が活発化すると架橋が難しくなり、渡し船が交通手段として重要性を高めたのである。交通量の多い渡船場では輸送の限界も生じ、1940年代には安治川に河底トンネルまで造られ、現在でも使用されている。戦後になると、モータリゼーションの進展を背景に、大阪中心部の堀川は1960年代までにほとんどが埋め立てられ、今では地名などにその名残を留めるだけになったが、淀川下流部は工業地帯として存続し、河川舟運も一定の役割を果たし続けている。安治川では、現在でも舟運に配慮した橋脚の無い橋を架ける必要がある。

そこで、冒頭に紹介した架橋後も生き残った渡し船に戻ろう。いずれの箇所の橋も、大型船が航行できるよう桁下が30〜50mに及んでいるため、歩行者の日常的利用には適さず、住民の反対もあって渡し船が存続した。淀川下流域の工業地帯の河川では現在でも舟運が優先され、歩行者や自転車が利用できる橋を架けることが難しいのである。

以上の話は、数年前に大阪の都市内水運を調べた際の副産物である。どのような地域も、長い歴史の中で、人間がさまざまに働きかけ、手を加えることで形作られてきた。土地や地域に刻まれた来歴は、思いがけない形で現れることがあるものだと、あらためて認識した次第である。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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