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【Researcher's Eye】
映画の理解と翻訳の役割

2020/08/28

  • アルベルト・ミヤンマルティン

    慶應義塾大学経済学部准教授
    専門分野/翻訳学、日本研究

映画館で初めて観た日本映画は、カンヌでパルム・ドールを受賞した今村昌平監督・役所広司主演の『うなぎ』(1997年)だった。数少ない台詞のスペイン語字幕を読んでもほとんど何も理解できなかった。自分が若くて教養や人生の経験が浅かったのも事実だが、物語の普遍的な要素があっても、異文化の人物がとる行動の解釈に苦労した記憶がある。そのような状況の中で感情移入なんてもってのほかだった。

今年アカデミー作品賞等に輝いた韓国映画『パラサイト 半地下の家族』の中に貧乏一家の父が息子を諭す有名な場面がある。計画を立てても失敗するから人は無計画のほうが良いという人生観が語られ、特に欧米で好感をもたれた部分だ。ただ、その次に「人を殺そうが国を売ろうが知ったこっちゃない。わかったか?」という印象的な台詞が続く。米国でそれが「国が滅びても売られても誰も気にしない」と訳出されているのを見て驚いた。原文が衝撃の結末への伏線を張りながら、主人公家族の倫理観を暗示する重要な言葉だからだ。

作品の全体を考えれば枝葉末節と思われる部分だが、実はその台詞は米国で注目を浴び、支配者や富裕層に対する批判と読み取られたのだ。批評家や観客の当時の印象を調べると、具体的に当該場面を挙げて「映画館で感銘を受けた」などと作品全体を語っている人が多い。それで、「国家に失望」した「社会的弱者」である貧乏人家族への感情移入が生まれ、物語の最終盤に起こる予期せぬ行為に主人公が「追い込まれた」という言説が成り立つ。やがてこの作品は、社会が人を怪物にするという、資本主義や格差社会への批判として受け取られ、登場人物の人格や本当の動機が無視されたまま絶賛の的となった。『パラサイト』は社会的な批判の要素を含有していることは否めないが、東洋諸国の社会的背景を深読みして作品の虚構性やエンタメ性を忘れるのが西洋人の悪癖ではないか。今村昌平の『楢山節考』(1983年)に登場する姥捨伝説が日本人の歴史的慣習として真に受けられてしまったように。

映画の解釈は千差万別で良い。作品の評価も、生産国に対する限られた知識、受け入れ文化の感性や社会情勢の影響下で行われるのも仕方がない。それでも「翻訳」の役割は甚だ大きい。問題の台詞が後に訂正されたようだが、後の祭りとしか言えない。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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