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【Researcher's Eye】
現代演劇の〈声〉

2020/03/10

  • 針貝 真理子(はりがい まりこ)

    東京藝術大学音楽学部准教授・塾員
    専門分野/ ドイツ文学、演劇学

「現代演劇の〈声〉について研究しています」そう自己紹介するとしたら、魅力的な美声の発声法や、言葉や感情を明確に伝えるための俳優術などを思い浮かべる方が大半なのではないだろうか。だが、私がこれまで扱ってきたのは、むしろ言葉も感情も不明瞭で、今にも消え入りそうな声、あるいは耳をつんざくような叫び声、吐き気を催すような声といったものばかりである。

現代演劇では、一般に「美声」と呼ばれるものからはおよそ程遠い声をたびたび耳にする。そうした声の中に聞こえるのは、私たち聞き手が好むと好まざるとにかかわらず、そこに存在する身体が我々の耳に残すはかない爪痕である。その痕跡を響かせ、誰かの耳に残そうとする試みの根底には、個々の人間がそこに存在し、何かを訴えかけることへの肯定がある、と私は考えている。誰かの役に立つから、誰かに求められるから、そこに存在することや周囲に何かを訴えることが許されるのではない。そのことを思い出させてくれるような営みに、私は関心があるのだと思う。

舞台芸術とは、日常に響かせるのは難しいこのような〈声〉のための特異な場を準備する芸術でもあると言えるだろう。そこで観客は聞き手として迎え入れられ、自ら語ることをいったん休止して、耳を傾けるという行為に専念するよう求められる。ただしそこで耳を傾けるよう求められるのは、必ずしも演者自身の声ではない。私がこれまで扱ってきた上演作の中には、長崎の被爆者を扱ったものもあるが、例えばそこでは、演者は劇場外の被爆者と劇場内の観客を媒介する者になる。彼らは、自分自身の声ではなく、彼方の地でもはや消え去ってしまった声、あるいは今にも消え去ろうとしている声を感知させるために、自らの卓越した技能を用いる。そこでは演者もまた、語り手である以上に聞き手なのである。

グローバル規模での苛烈な競争に駆り立てられている現代人は、自らをアピールすることに精一杯で、人の〈声〉、とりわけ競争に敗れた者たちの〈声〉に耳を傾けるという営みを忘れがちである。しかし、誰もがそのような生き方に邁進する社会は果たして幸福だろうか? 真に豊かな社会を構築するには、時に手を休め、そもそも何のための競争だったのかを省みる場が必要なのではないだろうか。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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