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【Researcher's Eye】
戦争と言葉

2019/07/10

  • 五味渕 典嗣(ごみぶち のりつぐ)

    早稲田大学教育・総合科学学術院教授・塾員 専門分野/近現代日本語文学・文化研究

昨年、ここ数年の研究成果を、単著『プロパガンダの文学日中戦争下の表現者たち』(共和国)として上梓した。はじめは素朴な疑問からだったが、日中戦争について調べていくと、戦争に大義名分など不要だと痛感する。盧溝橋事件から数えても8年間続き、最大で85万人の兵力を動員したにもかかわらず、何のためにこの戦争が戦われるかという目的は最後まで曖昧なままだった。日本側の論理では、中国の人々は将来「建設」のパートナーとなるはずだったから、いったい誰と戦っているかさえ明確に定義できなかった。要するに日中戦争とは、戦争を推し進めたい側にとっても、ひどく説明も表象もしづらい戦争だった。

しかし興味深いのは、一方でこの戦争が、かつてない規模で「表現された戦争」でもあった、ということだ。帝国日本が初めて経験する総力戦として、軍と政府は、いくつかの失敗を経験しつつも、世論とメディアを統制する技術を学習していった。権力は何を見せ、何を見せないかを決めることができる。権力は情報という商品の分配を通じて、メディア企業が自ら進んで協力するよう仕向けることもできる。文学者、ジャーナリスト、画家、映画人など、多くの表現者が戦地に赴き、新聞各社は報道合戦を過熱させた。戦地の日本軍兵士たちの表情は、ニュース映画を通じて銃後の人々に伝えられた。実際の戦場を経験した兵士たちの従軍記も数多く公刊された。そこでは、戦争自体への問いが封じられた中で、なお戦場で挺身することの意味を見出していく物語が多く紡ぎ出された。戦時性暴力や軍隊内のイジメなどは当然のように検閲の対象となり、統制され漂白された戦争のスペクタクルを享受した人々は、前線と銃後との「絆」を強調する大量の言葉たちにさらされて、受忍を強いられること、戦時下というタテマエを優先させることに馴らされていった。

しかし、言葉とは残酷なものだ。人間は時代の中でしか生きられないが、語られた言葉はどこかに残り、いつか誰かによって読まれてしまう。いまの私の仕事は、戦争の時代を生きた人々の言葉を、文献と資料の海原からすくい上げ、受け取り直すことである。戦争を生き抜いた言葉には、残らなかった言葉の谺(こだま)も刻まれている。この社会は、そのことの意味と恐ろしさとを、もっと真剣に考えるべきだと思う。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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