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【Researcher's Eye】
和田龍磨:批判と追求の狭間で

2018/10/18

  • 和田 龍磨(わだ たつま)

    慶應義塾大学総合政策学部教授 専門分野/国際マクロ経済学、計量経済学

私の専攻である経済学では、国際的な査読付き刊行物に投稿される論文のページ数が近年特に増加していることが話題になっている。最近では7月23日付のウォールストリートジャーナルにも“Economists Can't Write Economically”,(経済学者は経済的に書けない)で始まる見出し付きで掲載されていた。この記事にある通り、実際には数ページにまとめられ るようなアイディアであっても論文としては50ページほどになってしまうが、一つの理由としては厳しい査読のプロセスで不掲載とならないよう、査読者が批判しそうな論点にはあらかじめ論文の中で反論しておく、ということを様々な角度から行うからである。もちろん、批判に耐えうる緻密な分析がよい論文であるという考え方は説得的であり、直ちにわかるような間違いのある論文が有名な専門誌の査読を通過することはまずない。

そのため、私も研究では推定やシミュレーションなどの再現性については慎重を期しているが、専門誌に掲載された論文のうち、多くの研究結果は再現できないことを指摘した論文もある。

すると、研究者以外の人からは「研究者間では名声や研究費獲得のための不正が横行しているのではないか」、と疑われることもある。そのため、近年では研究不正を防ぐための様々な措置が講じられている。しかし、ここで重要なのは、意図的な改竄・捏造と意図せざる、直ちに明らかでない間違いの差であり、この二つの差は必ずしもわかりやすいものではない。前者は研究上の犯罪であるが、後者は何であろうか?

アメリカで1980〜90年代に研究不正の追及が議会や検察までをも巻き込んで行われたが、そのさなか、RobertE. Pollack というコロンビア大学教授がニューヨークタイムズへ寄稿を行い“Published error is at the heart of any realscience”. と述べている。間違えないことばかりに汲々としていては、検定済み教科書のような、すでに知られていることの焼き直ししかできないということなのであろう。研究者としては自らの研究が批判に耐えるものであるべき、として研究を行う一方、新しいことを追求する研究本来の目的からすれば、ある意味で間違いはあって当然なのである。研究では大きなことを考えるようにと自分に言い聞かせている。

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