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【写真に見る戦後の義塾】
「大学紛争の時代」50年前の一体育会部員の懊悩

2019/12/23

塾生の中に体育会部員がいた。当時33部1,400名前後であったろうか。厳しい練習に耐え慶應義塾を代表して試合に臨む諸君である。塾を愛し、スポーツを愛し、塾体育会部員であることを何よりも誇りにしている若者達。筆者もその一員であり、空手部主将、体育会本部兼任常任委員という立場であった。空手部はもとより体育会全体を束ねる責任があった。そんな中いくつかの大学では過激派との武力衝突に至った体育会があった。自らが拠って立つ大学の存立を脅かす武力集団に武力で立ち向かったのである。この体育会の動きを看過、助長したいくつかの大学もあった。そして体育会は敗れた。無謀であった。武装し、武闘経験のある過激派にとって体育会学生は敵ではなかった。修復しがたい学生同士の亀裂と憎悪。

塾体育会各部は多様であった。ある部は淡々と練習を続け、ある部は練習もそこそこに学生大会、各種集会に駆け付け思うところを主張する。しかし最も強い主張はなぜ良識ある体育会が三田山上に展開する異常事態を看過するのか、というものであった。空手部はたびたび稽古を中止し部内討論会を開く。そして部員同士の意見の対立。筆者は翻弄され懊悩した。個と全体、左右過激思想と常識論、16年間学び続けた塾への愛着、有り余る体力と情熱。

結局体育会は一切の全体行動を控えた。文字通り紙一重の決断の場面を何度か乗り越えた結果であった。

義塾における紛争は粘り強く話し合いを守り通した良識派塾生の力の結集によって過激派の塾監局退去を実現し、事実上終息することとなる。義塾は官憲の導入なくこのことを実現した日本で唯一の大学となった。

義塾は、塾生、塾員はこの歴史的体験を通じて何を失い、何を得たのであろうか。「義塾における学園紛争」、このことが持つ意味を若き塾生、塾員はどう受け止めどう理解し、誰が検証し後世に伝えるのだろうか。筆者の胸に去来する思いは今なお複雑なものがある。ただ自らが愛するもの、自らが属する組織のために自らを捧げ、これを誇らず淡然と立つ人物を選良(Elite)と呼ぶなら、筆者はこの苦しくも鮮烈な経験を通じて多くの真のElite と出会うことができた。後にそれは実社会ではまれにしか体験できないことを知った。「青い」投稿当時、このことに気づく術も語る術も持ち合わせなかった。50年の歳月がこれを可能にしてくれた。

日吉ラグビー場で佐藤朔塾長の前に陣取る体育会学生
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。
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