【写真に見る戦後の義塾】
「大学紛争の時代」50年前の一体育会部員の懊悩
2019/12/23
我が国が先の大戦で壊滅的打撃を受け、敗戦を迎えたのが昭和20(1945)年であった。それから70有余年、先人のたゆまざる努力と英知により我が国の平和と繁栄がもたらされた。その間、様々な政治的、社会的事象が現出、道は決して平坦ではなかった。
戦後四半世紀を過ぎたころ、「学の独立」を根本から揺るがす「学園紛争」という驚くべき事象が起こった。手許に当時の「三田評論」(昭和44(1969)年3月号)に筆者が寄稿した一文がある。渦中で翻弄され、懊悩を続けた一塾生、そして体育会部員としての「青く」、激情に任せた、そして関係者の皆様に極めて礼を失した表現の多い6千字である。さらにこれに対し次号では生田正輝体育会理事、大正12年(1923年)卒の田辺武雄先輩の懐深く、若者を諭し抱きしめるような投稿が続く。今回筆者はどのようにこの想い出を綴ることができるだろうか。
50年前、日本国中を学園紛争の嵐が吹き荒れた。ほとんど全ての大学で校舎封鎖、授業中止、入学式、卒業式などの基幹行事中止という日々が続いた。理由は様々であった。明確な左翼革命思想、既成秩序に対する反抗、真摯な改革思想など、そしてこれに肯んじず、安寧な学園生活を希求する学生の反発。徹夜の学生大会、連日の集会、怒号が飛び交い、乱闘、集会解散……。まさに熱病としか形容のしようがない。
やがて全学連過激派と言われる集団が突出する。鉄パイプ、ゲバ棒(角材に釘を多数打ち付けた武器)、ヘルメット、覆面で武装し、学内中枢建物を占拠してゆく。教職員、学生はこの乱暴狼藉に対抗する術を持たない。学長、教授陣は拉致され、首に札をぶら下げられ「自己批判」を強要された。学園の荒廃無残。
慶應義塾もその例外ではなかった。昭和40(1965)年、学費値上げ反対闘争を皮切りに43年の「米軍資金導入反対」で頂点に達した運動はやがて止まるところを知らず、ついに塾監局も全学連過激派に占拠されてしまう。彼らが塾生なのか、他大学生なのか、そもそも学生か否かさえ判別できない。先生方は軟禁され自己批判を強要される。
学内の反応は様々であった。異常事態に猛反発する塾生、教授陣の存在は当然として、過激派を擁護、支持する教授陣、塾生まで、それぞれがそれぞれの立場で議論し合い、反発し合い、憎み合い、そしてそれぞれが連帯感を高め合った。もちろん絶好のチャンスとばかりに遊び呆ける「ノンポリ」もいた。誰も乱暴狼藉を止め、排除する物理的力を持たなかった。熱病に冒されたものには塾生の良識ある説得は無力であり通用しなかった。しかし機動隊を導入して不法占拠者を即刻排除すべし、という強い主張はなぜかあまり耳にした記憶がない。独立自尊の学塾であるべし、との暗黙の自負と了解が短絡的に最終手段に訴えることを良しとしなかったのであろうか。
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奈藏 稔久(なぐら としひさ)
三田体育会会長、慶應義塾評議員・1969経