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【写真に見る戦後の義塾】
「大学紛争の時代」1965年の我々の闘争

2019/12/23

この当時は、実際に右翼の学生が襲撃してくるとか、警官隊が入ってくるといったことは気にしていなかったから、バリケードと言っても象徴的なもので、その日の朝組んで夕方には全部撤去していた。

我々の要求は値上げを一時撤回して停止する。もう1つ、大学と学生代表との協議機関をつくる。さらに、値上げで対応するのではなく、大学側と学生側と一体となって国庫助成で対応していくというもので、それをめぐってずっと交渉が続いた。

しかし、大学側は、南校舎の下に学生の読書スペースをつくるから、といったことしか言ってこない。小出しの対策でなんとかなると思っていたのだろう。

実際、2月になると卒業試験が控えており、4年生の卒業問題というものがわれわれのウィークポイントではあった。もう1つ、2月初めに三田キャンパスで中等部の入試が予定されており、大学側は「それは大学の問題ではないのだから、妨害すると刑事問題になるぞ」と脅しをかけてきた。

2月4日深夜、ある三田会のOBを通じて大学側が妥協条件を示してきた。高村塾長が入院している四谷の慶應病院に来い、と言われ、闘争本部は出かけた。その条件とは、「塾債の強制は撤回して任意制とする、学費値上げ自体はこのままやる、今後塾長と学生代表との協議の場を設ける」というもので、学生側がまとめた最終的な要求の半分にも行かない。

しかし、結局闘争本部だけで、この条件案をたたき台にして学生大会に諮ろう、と決めてしまった。そこで、この学生闘争が持っていた「大衆的な下からの全体のイシュー」という原則を、闘争本部自身が壊してしまったことになる。これはわれわれの一番の失敗だった。結局、政治闘争というものに不慣れだった、ということだ。

2月5日の全塾学生大会は、三田の南校舎前の広場で行った。私は大会の設営責任者だったが、とにかく、日吉、小金井からも来るので、大変な数の塾生が集まってきた。途中で怖くなってしまったほどだ。最終的な投票数を数えたら約1万2千。一番多い時で、1万5、6千人は集まったのではないかと思う。

今泉孝太郎塾長代理が「塾債義務化撤回」の塾長提案を読み上げ、大学側が出した昨夜の妥協条件は、特に日吉の自治会から多くの反対意見が出て1時間以上議論した末に、何とか可決された。我々の闘争は、事実上終わった。慶應の学園闘争は直接民主主義的な力だと言われていたが、それが一挙にこの段階で雲散霧消してしまったわけだ。

1965年の闘争は、後に見られた「セクト」はまだ前面に出て来ず、あくまで一般の塾生が主体の自治会的な民主主義に支えられていたと思う。バリケードは築いたが、物を壊すこともなく、一生懸命構内を掃除して歩いたくらいだった。基本的な被害は大学側には何ら与えていないはずである。

68年、69年と大学紛争はセクト化、過激化していく一方となった。セクトとしては、中核派、それから再建されたブント(共産主義者同盟)のマル戦派(マルクス主義戦線派)が結構強かった。私はそういった実力闘争には参加せずに、大学院の自治会活動を地味にやっていた。

69年の大学立法闘争の時に佐藤朔塾長が行った日吉のラグビー場集会を粉砕するため、ハンドマイクでアジ演説をしに行ったが、そこには65年のときのような、塾生皆が総ぐるみになっていたような盛り上がりはなかった。

65年の闘争というのは、文連(文化団体連盟)なども含めて総ぐるみの闘争であった。なぜ65年の闘争にあれだけの塾生が集まったのかを考えると、その背景には1950年代から60年代にかけての大学の学生数の急激な膨張があったと思う。50年代の前半までは学生総数が1万までいっていなかったのが、我々の頃には2万を超えていた。その急激な変化にあらゆる矛盾が鬱積し、学生の不満が溜まっていったのだ。

(本稿は、2019年7月18日に行った岩松研吉郎名誉教授へのインタビューを元に編集部が構成した。編集には都倉武之福澤研究センター准教授の協力を得た。岩松先生は8月24日に逝去された。ご冥福をお祈り申し上げる。)

1969(昭和44)年9月11日 日吉ラグビー場の全学集会での岩松研吉郎氏
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。
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