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【写真に見る戦後の義塾】
「大学紛争の時代」1965年の我々の闘争

2019/12/23

  • 岩松 研吉郎(いわまつ けんきちろう)

    慶應義塾大学名誉教授

私は幼稚舎から塾で学んだが、塾高の頃より政治と文学に興味を持った。高校の終わり頃、いわゆる構造改革派と呼ばれる組織の一つの共産主義青年同盟(共青)に入り、大学の間もそれで通した。

1962(昭和37)年に大学に入ると、主に自治会を抑えるということをやった。学部ごとに自治会があり、またキャンパス単位の自治会、それをまとめる形の全塾自治会というものがあった。慶應は1950年代から経済と文学部は左派が強かったが、他は大体右派が抑えていた。それを日吉にいた時分からこつこつとひっくり返すような運動をした。日吉自治会も右派からひっくり返し、それが後の学費闘争の基盤になった。

自治会の活動というのは、基本的には学生のためのサービス活動で、早慶戦の世話や奨学金の拡大を要求したり、食堂の改善、値上げ反対などをした。その他に戦後ずっと掲げてきた「反戦平和」の活動もあった。学内での要求は直接学部の執行部、あるいは理事会に対して要求をしていく形になる。それが一番集約されたものが学費値上げ反対闘争だった。

1965(昭和40)年1月20日、塾の評議員会で次年度からの学費値上げ、及び塾債の発行が発表された。初年度納入金は入学金、授業料の値上げに加え、施設拡充費が新設、さらに10万円の塾債の購入が初年度に義務付けられた。これにより、入学金を除いた初年度納入金が約3倍増となった。この値上がり幅はすごいものがあった。ちょうどサントリーが「トリスを飲んでハワイに行こう」という懸賞をやっていたが、誰かが「慶應やめてハワイに行こう」という、反対のためのスローガンをつくったほどだ。

我々は評議員会後、すぐに三田で抗議集会を開いた。私は当時、三田の文学部自治会の委員長という立場だった。全塾自治委員会の委員長は後に法政の教授となった寺尾方孝君だった。各自治会でビラを配って動員し、学生大会をやり、「ストライキ決議をしよう」と持っていった。「塾長出てこい」と要求したのだが、高村象平塾長は、病気ということで慶應病院に入院してしまった。

1月27日には日吉で授業放棄が始まり、28日には義塾始まって以来の全学ストに突入した。当初、1日だけの時限ストの予定だったのだが、解決がつかないので無期限ということになった。

日吉、三田ではバリケード封鎖を行った。ストライキをやるからには、とりあえず中に教職員を入れさせない、という考えからだ。

「バリスト」という戦術はこの頃から始まったものと言われているが、以前よりいろいろな大学でやっていた。われわれは明治や早稲田の組織から、机の組み方を教わった。日吉も三田も封鎖はやりやすい。日吉は並木道の入口を、三田は南門を塞いでしまえばいい。幻の門は簡単なバリケードで済んだ。

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