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【1300号記念 特別インタビュー】義塾の広報誌に漫画を描き続けて
2025/06/10

漫画クラブの思い出
──今日は『三田評論』の1300号を記念して、長年本誌に漫画・カットをお描きいただいているヒサクニヒコさんにお話を伺いたいと思います。
ヒサさんには1971年1月号「コラム」でカットをお描きいただいてから現在に至るまで、様々なところで本誌を活気づけていただいています。また、記事や座談会等にもしばしばご登場いただき、あらためて感謝申し上げます。
ヒサ もう50年以上のお付き合いになりますね(笑)。
──塾生時代のことからお聞きしますが、ヒサさんは在学中、「漫画クラブ」に所属されていたんですよね。
ヒサ そうです。大学に入った時、友達と、日吉校舎の今はなくなった梅寿司で昼食を食べている時にポスターを見たことがきっかけです。面白そうだと思って部室へ行ってみると、4年生が2、3人いて、久しぶりに新入部員の希望者が来たと喜ばれました。
──そこからは漫画クラブでバリバリとご活動を?
ヒサ でも、1回集まりがあった後は、4年生は皆、顔を出さなくて。何もしないままほぼ1年が経って卒業してしまった(笑)。
実は僕が入る少し前、「学生漫画連盟」という、大学の垣根を超えた、漫画を描いていた学生たちの団体があったんです。その時は福地泡介さんや、園山俊二さんといった早稲田の漫画研究会の人たちが活躍されていて、いわゆる漫画ブームだった。けれどブームも去って、その団体も解散してしまった。
漫画クラブも低調で、このままブームは終わってしまうのかな、などと友人とも話していた時、早稲田の漫画研究会の代表が訪ねてきて、「NHKから早慶漫画合戦という企画が持ち込まれた。ぜひやってくれないか」と言うわけです。
しかし、早稲田は部員が40人ほどいるけど、こちらは2人しかいない。それで何とか絵が描けそうなのを3人集めて出場したのですが、なんと勝ってしまった(笑)。そこで慶應も活動を続けようと決心したんです。
──慶應義塾の『塾』からイラストのオファーが来たのは、その頃でしょうか? どういった経緯だったのでしょう。
ヒサ その後も部員を集めようと色々と活動をしていたんです。するとほかの大学でも「もう一度学生漫画を盛り上げよう」という動きが出てきて、「学生漫画連盟」が再結成された。そんな我々の活動を見て、新聞社や週刊誌が学生の漫画を対象とした色々なコンクールを開催するようになったんです。

その中で、毎日新聞がお正月の企画で、学生の漫画で特集をやることになって各大学の学生に漫画を描かせたんですが、僕のが金賞を受賞した。でも、賞金をどこへ送っていいのかわからなかったんでしょうね。
「毎日新聞社から賞金が届いているから塾監局に取りに来なさい」と、大学の掲示板で呼び出されて(笑)。おそらくそれがきっかけになったんだと思います。最初に描いたのが1964年、大学3年生の時です。これが慶應の広報媒体に初めて描いた時ですね。漫画クラブで卒業の年に出した会誌がこれになります(下の画像、表紙はヒサさん)。

(1965年11月、漫画クラブの会誌)
卒業、そして漫画家へ
──いつ頃から漫画の世界にご興味があったのでしょうか。
ヒサ 初めて意識して漫画を描いたのは、普通部の時ですね。修学旅行の時、普通部会誌にカットを描いてくれと言われて。
そこで生徒同士が、思春期特有の話をしているのを、見回りの先生がつい耳を立てて聞いている、という場面のイラストを描いたのですが、それが会誌を担当している人たちの検閲に引っかかってしまい、立ち聞きしている先生のシーンはカットされてしまった(笑)。
──最初に描いた漫画でまさかの検閲を受けてしまったと(笑)。普通部の美術の先生から影響を受けたことなどはあったのでしょうか。
ヒサ それが絵の描き方については一切教えてくれない(笑)。ただ、授業でも描きたいものを自由に描かせてもらえたので、それは助かりました。中学生くらいだと、みんな学校行事を描いたり、自分の手を模写したりすることが多いじゃないですか。それじゃつまらないと思って。戦争画や裸婦の名画を模写して出してみたんです。けれどそうした絵も評価してくれて、とても嬉しかったですね。
──大学を卒業されて、すぐに漫画家の道を歩まれたのですか?
ヒサ 卒業前に自分なりの卒論のつもりで、自費でヒトコマ漫画集を出したのですが、それが当時文藝春秋社で出していた『漫画読本』という月刊誌で紹介されました。それが商業誌で漫画が載った最初かもしれません。卒業後はある商事会社に勤めていたのですが、やはり漫画を続けたくて。在職中から、自費出版で漫画本を刊行したり、展覧会を開催したりしていました。
そうした活動を続けていた中、当時、文藝春秋社が「文藝春秋漫画賞」という賞をやっていて、そこに自費出版で出した漫画が候補に取り上げられ、28歳の時、賞を受賞することができました。
また、『漫画読本』の編集長を当時務めていた半藤一利さんが僕の漫画を面白がってくれて。8ページ、多い時には16ページを自由に使わせてくれました。一コマ漫画を1枚だけポンと見せるのもいいんだけど、それだけのページ数があれば、1つのテーマがじっくりと描けます。『漫画読本』はそれをときどきやらせてくれて、当時はこれが一番嬉しかったです。
あと、「文藝春秋漫画賞」の審査員の中に、小説家の北杜夫さんがいて、僕の絵を面白いと言って、新潮社の『さびしい王様』や『さびしい乞食』といったシリーズの挿絵を任せてくれたんです。漫画家として本格的に活動を始めたのがその辺りになりますね。
一コマ漫画へのこだわり
──『塾』のイラストもそうですが、ヒサさんは最初から一コマ漫画を描かれていたのでしょうか?
ヒサ そうですね。当時はいわゆる大人向けの漫画と子ども向けの漫画、2つの漫画があったんです。子ども向けの漫画はいわゆる子どものおもちゃという発想で作られていて、漫画雑誌に付録がたくさんついていて、それで楽しんでもらうことを目的としていた。一方、一コマ漫画を含む、大人漫画というのは新聞や大人向けの雑誌に載っている、社会風刺をテーマにしたものと、ちょっとお色気のあるものですね。少しコマがある、ユーモア的な漫画やイラストみたいなものもありました。
今の漫画とはまた異なる面白さがあったのですが、ある種、瞬間風速的な面白さなので、時間が経ってしまうと、何を揶揄して描いたのか、本人すらわからないこともありました。けれど、戦後、1945年から60年代まではむしろこうした作品こそが、漫画文化の中心だったんです。
──ヒサさんが愛読されていたのもそうした作品だったわけですね。
ヒサ ええ。ただ、60年代の後半になると、少年漫画、いわゆるストーリー漫画が週刊や月刊の少年誌で大人気になりました。手塚治虫だけではなく『巨人の星』や、『あしたのジョー』のような、大人の鑑賞にも耐えるような作品も描かれるようになってきて、大人の読者もみんなストーリー漫画を読むようになっていったんです。
──時代が変わっていったと。
ヒサ だから、今の編集者だと一コマ漫画なんて見たことがない、という方も多いですね。どう受け取っていいのかもわからない。説明するとわかるんですけど(笑)。
それで、どんどん大人向け漫画を描いていた人たちが姿を消していってしまった。例えば清水崑(しみずこん)さんや近藤日出造(こんどうひでぞう)さんは、似顔絵が上手くて、政治家の似顔絵だけで漫画が成り立つくらい面白かったのですが、そのような漫画は、まとめられて単行本として見られるチャンスがほとんどないままに消耗されてしまった。
──ヒサさんとしては、そうした先達たちの作り上げてきた文化を守りたい、という思いもあったのでしょうか?
ヒサ そうですね。やはり僕の中には大人漫画に対する憧れというものがあって。中でもナンセンス漫画と呼ばれた、特にテーマがない、逆に言えば何を描いてもいいという作風が好きだった。
だから一コマの中で、青臭く、人生観や社会観といったものを表現したい。それが今も漫画を描く際のモチベーションになっていますね。
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