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【特別対談記事】心・人・世界の壁を超える『越境力』の秘密に迫る

2025/06/20

  • 佐藤 弥生(さとう やよい)

    ロサンゼルス・ドジャース アジア太平洋オペレーションディレクター・塾員

東京シリーズの屋台骨として

伊藤(塾長) 皆さん、こんにちは。本日はロサンゼルス・ドジャースの佐藤弥生さんをお迎えし、これまでのご経験をもとにお話を伺いたいと思います。佐藤さんは、1996年に慶應義塾大学文学部をご卒業後、アート会社の広報やテーマパーク建設プロジェクトでの通訳、オンラインゲームのローカライズ事業など、国際的な分野で幅広くご活躍されました。2003年にロサンゼルス・ドジャースに初めて入社されて以来、スポーツとエンターテインメントの現場で日米をつなぐ役割を担ってこられ、現在は、編成部とビジネス部門の両面から日本関連業務を推進されています。

明日から始まる、東京ドームでの「MLB東京シリーズ」開幕に合わせてチームに同行されているわけですが、まずは自己紹介をお願いします。

佐藤 初めまして。私は現在、ロサンゼルス・ドジャースのアジア太平洋オペレーションディレクターとして、ベースボールとビジネス双方における、日本人選手や日本に関する球団業務全般を担当しています。東京シリーズ開幕を明日に控え、塾員として母校を訪問する機会をいただき、とても嬉しく思います。

伊藤 先ほどまで、佐藤さんのもとにはドジャースの皆さんから絶え間なく連絡が入っており、チームから頼りにされるお立場であることがよく分かりました。

佐藤 日本に来ることは数カ月前から分かっていたのですが、1週間ほど前から、「あれはどうなっていた?」といった問い合わせがひっきりなしに入り始め、ラストミニッツの対応に追われているところです。

伊藤 MLB(メジャーリーグ機構)はこれまでにも、ニューヨーク・ヤンキースやボストン・レッドソックス、シアトル・マリナーズなどのオープニング・ゲームを日本で開催してきました。

佐藤 海外興行を管轄するのはMLBなのですが、今回のドジャースとカブスのゲームは規模的にもずっと大きく、かなり力を入れています。ドジャースでも選手やスタッフだけでなく、彼らのご家族や関係者も同行しているので、その方たちのケアをするのも数多い私の役目の1つです。

伊藤 昨年のドジャースのオープニング・ゲームは韓国で行われましたね。

佐藤 そうですね。日本との時差がない国に行った経験はチームの中でも生きていると思います。

独力で米国留学を続けた高校時代

伊藤 今日のテーマは「壁を超える」です。まずは"心の壁"についてお聞かせいただければと思いますが、先日、ある新聞で、米国の人々は平均して7回職が変わるというニュースを読みました。佐藤さんも次々と新しいことにチャレンジをする中で、心の壁をどのように超えたか、あるいは世界に出ていこうという時の心境についてお話しいただけますか。

佐藤 私が最初に海外に出ようと思ったのは高校時代でした。中高一貫の女子校で少し窮屈さを感じ始めていた時に、米国留学の経験がある同級生がいて、英語が一番好きな教科だったこともあり、外国への憧れとともに留学しました。最初は壁を感じるよりも、ルンルン気分でした。

ところが、ホストファミリーの人たちと気が合わず、どうしたものかと困ってしまいました。後で聞いたところでは、同じような生徒がたくさんおり、帰国する同期生もいたそうです。でも私は、それでは面白くないと思い、自分で別のホストファミリーを見つけて家を出て留学を続けたのです。

伊藤 そこで、まず越境されたのですね。

佐藤 すぐに帰るのは悔しかったのです。せっかく親にお金を出してもらい、1年休学してもいるのに、こんなことで帰りたくない、と。

伊藤 当時からやり遂げる力があったのと、良い意味での負けず嫌いだったのですね。

佐藤 実は自分をコンペティティブ(競争が好き)な人間と感じたことはないのです。むしろ、競争は苦手なほうかもしれません。ですが、自分で定めたゴールは譲りたくないと思っていました。

伊藤 その後、慶應義塾大学に進学され、また心の壁を超える経験がありましたか。

佐藤 私は一浪しているので、最初の入試で一度挫折がありました。実は、もともとは早稲田志望だったのです(笑)。なんとなく、自分のキャラクターに合っていると思っていたからですが、予備校のチューターから、「試験日程が1日空いているからどこか受験してはどうか」と言われて選んだのが、慶應の文学部でした。

伊藤 運命の入り口へようこそという感じですね(笑)。

佐藤 早稲田の1つ目の学部は落ちて、次に受ける予定だった学部の試験前に慶應に合格し、早稲田はもういいやと(笑)。その後、東京外国語大学のイタリア語学科に合格しましたが、友人たちのすすめもあって慶應に決めたのです。

伊藤 運命の選択は正解でしたか。

佐藤 大正解でした。慶應に入っていなかったら、きっと違う人生だっただろうなと思います。

バブル崩壊でバックパッカーに

伊藤 慶應では、その後の人生の壁を乗り越えるきっかけとなった学びや経験はありましたか。

佐藤 在学中の4年間に壁を感じることはありませんでした。強いて言えば、1年生のドイツ語は単位を落とすと留年なので、それが一番の壁だったかもしれません。

公認学生団体のラリーテニスクラブというサークルで、初めて組織運営のようなことを経験しました。3年生の時には女子代表を務めたのですが、その他にも役職があり、きちんと年間のスケジュールを立て活動するサークルで、この経験はその後とても役に立ちました。

伊藤 在学中は海外に行かれたのでしょうか。

佐藤 いえ、サークル活動に没頭していました。

伊藤 卒業後、海外に出るきっかけは何だったのでしょう。

佐藤 就職したことがきっかけですが、それも行き当たりばったりでした。当時の就職活動は3年生の終わり頃にスタートし、皆セミナーに参加したり、履歴書を送ったりしていました。私はそれが煩わしいと感じ、いつの間にか4年生の4月になってしまった。スタートで出遅れたのです。

その時に偶然、新聞に折り込まれていたある会社の機関紙を見つけました。アートのパブリッシャーが主な事業の会社で、淡路島で唯一、阪神・淡路大震災でも壊れなかった築100年のレンガ倉庫をバリアフリーの美術館に改築中とあり、面白そうだと思い履歴書を送ったのです。

4月の8、9日頃だったと思いますが、急きょ面接することになり、社長とお会いして、互いにビビッと感じるものがあったようで、その場で採用が決まりました。

伊藤 ここまではまだ、野球のの字もベースボールのの字も出てきませんね。その後、どのようにして米国で野球にかかわる仕事をする方向に進んでいくのでしょう。

佐藤 最初に入った会社では、海外の新進アーティストを日本にプロモートする仕事をしていました。高校留学で多少英語ができたこともあり、海外のアートショーに行かせてもらうなど、早くから海外経験をさせてもらえました。

伊藤 最初から実践的な仕事に就かれていたのですね。その後もいろいろなことにチャレンジされるわけですが、その過程で"心の壁"を感じたエピソードはありますか?

佐藤 1990年代前半にバブルがはじけ、消費の落ち込みが進むと、アート業界も真っ先に影響を受けました。次に進みたいと転職活動をしてみましたが、面白そうな転職先は見つからず、とりあえず会社を辞め、バックパッカーとして、6カ月かけて1人で米国中を回る旅をしました。

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