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【パリ2024オリンピック・ パラリンピックでの塾生・ 塾員の活躍】メダリスト インタビュー

2025/01/22

決勝イタリア戦、勝利の瞬間(写真 共同通信)
  • 飯村 一輝 (いいむら かずき)

    パリ2024オリンピック フェンシング男子フルーレ団体金メダル・総合政策学部3年

オリンピックとの出会い

幼い頃から父がコーチをしていた太田雄貴さんがフェンシングで活躍するのを見ていました。2008年北京、2012年ロンドンで太田さんがメダルをとった瞬間は自分の家がパブリックビューイング会場のようになって、その一番前で応援していたんです。このように幼い頃からオリンピックは近い存在でした。

「実際に自分も出たい」と意識するようになったのは、小学6年生で初めて海外試合でオーストラリアに遠征し、その大会で優勝した時です。そこで海外選手と戦い、厳しい中で勝ち切ることの楽しさを味わったことで、「オリンピックに出て金メダルを取りたい」と思いました。

フェンシングはリーチの長さや身長差が影響する競技と思われますが、その差は技術、スピード、駆け引きなどでカバーすることもできます。その大会で、身長が低い自分でも、そういった技術や駆け引きで勝負できるのだ、と知ることができました。海外試合初優勝が、僕の中ではフェンシングの魅力に気づいた瞬間でした。

苦しかったフランス戦

パリではまず、個人戦がありました。僕はランキング的には金を狙えるところにいましたが、これまで世界選手権で優勝したことがなかったので、1戦1戦勝ち切ることを目標にし、目の前の相手を倒したいという気持ちで準決勝まで進出しました。

ところが、準決勝、3位決定戦というメダルが決まる試合では、メダルを意識してしまい、いつも通りの自分のフェンシングができなくなってしまったのです。結局両試合とも負けて、ベスト4に入りながら僕だけがメダルがなかった。その悔しさは数日間消えませんでした。「あの時ああしておけばよかった」と考えてしまって眠れませんでしたが、何とか気持ちを切り替えて団体戦に臨みました。

団体戦準決勝となるフランス戦はとても苦しい試合でした。今回のオリンピックは個人、団体通じて、会場である「グラン・パレ」でずっと戦っていたいと思うほど、高揚感を味わっていて楽しかったんですが、この準決勝だけは楽しくなかったのです。もう苦しくてたまらなくて、はやく終わらせたい、逃げ出したいと思いました。フェンシング発祥の地のフランスで超アウェイの中であり、発祥の地だからルールを理解している人も多く、ブーイングもありました。

男子フルーレ団体は最終種目でした。それまで日本チームは3日連続団体でメダルを取っていましたが、「銀銅銅」で金だけがなかった。男子フルーレは世界ランキング1位でしたので期待もされ相当プレッシャーもありました。その中での準決勝フランス戦は、すべてを賭けるつもりで戦ったのでしんどかったです。

全体の試合9試合のうち、前半の3試合でリードし、中盤の3試合で追いつかれ、後半で突き離す展開になりました。僕は1戦目は5-1で勝ち、2試合目は5-8で負け。3試合目は5-2で勝つことができ、点差を広げることができました(45-37で日本が勝利)。

3試合目が一番苦しかったです。自分がやりたいプレーではなく、チームのための戦い方をしなければいけない。失点を少なくすることを徹底し、相手の得意なところで戦わないようにする。このように制約の多い戦いでした。しかし、やることをやった結果、点差がつけて勝利でき、よかったと思います。

メンバーがそれぞれお互いに鼓舞しあって、乗り越えた試合でした。あの大きな壁を乗り越えることができたことは、僕だけでなく日本チームの大きな成長になったと思います。

フランス戦に勝ってから会場の人たちからも誉めてもらうことが多くなりました。フランスに勝った時はスタンディングオベーションが起き、会場を歩いているとフランス人の方から握手やサインを求められたりしました。

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