【その他】
【From Keio Museums】三田大講堂 戦後復興案の図面
2023/12/07
所藏:慶應義塾塾監局管財部工務担当
所藏:慶應義塾塾監局管財部工務担当
所藏:慶應義塾塾監局管財部工務担当
所藏:慶應義塾福澤研究センター
今は跡形もない慶應義塾の名建築に曾禰中條建築事務所設計、1915年竣工の三田の大講堂がある。大学だけでなく塾内各校の入卒業式をはじめとする諸式典会場、そして著名人の講演会やコンサートなどが行われた東京有数のホールとして歴史に登場し、着席で2,000名以上を収容できた。関東大震災での破損を修復した際、正面に3連アーチを設けた。この時バルコニーに「ユニコン」像が登場し、図書館以上に塾生に愛された建物でもあった。しかし1945年5月の空襲で内部を焼失、無残な焼け跡をさらした。
その大講堂の復興案が3種残ることは以前本誌(2021年7月号)でも紹介された(図面を、慶應義塾史展示館企画展「曾禰中條建築事務所と慶應義塾Ⅱ」(12月16日まで)にて展示中)。1947年の案は、文字通りの復旧である。実現すれば、おそらく簡素なエメラルドグリーンの屋根に仕上がっただろう。しかし、義塾は校舎や研究室確保を優先せざるを得ない時期で、工事は実現しなかった。図書館の戦災復旧工事でさえ完了は1949年だ。
次のプランは1950年。曾禰中條建築事務所出身の齋藤誠二設計による図面は、尖塔を持つ華麗な姿で、従来の玄関部分を外観に活かし、旧構造を内部に取り込んだ。ユニコン像は背後の屋上両隅に移動される予定だった。
3番目が1953年。3連アーチと玄関のみを記念碑的に残し、本体はほぼ新築。この頃「大ホール建設基金」と銘打って行われた寄附募集の記事を見ると、従来の大講堂は旧式で狭く、中ホールか博物館にして別に大ホールを、という声が多い、とある。結局1957年に大講堂の廃墟は取り壊され、翌年日吉に記念館が完成。さらにその翌年に大講堂跡地に518教室(現西校舎ホール、定員800名)を中心にした西校舎の第1期工事が完成する。かつて大講堂で行われた全塾的行事が今では規模に応じて日吉記念館と西校舎ホールで行われるので、機能を優先し建物を捨てた形となった。
もし最初の復旧計画が実現していたら──苦渋の選択とは知りつつ、やはり惜しまれる。
(慶應義塾福澤研究センター准教授 都倉武之)
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。
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