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【新 慶應義塾豆百科】
幻の再建計画「三田大講堂」

2021/07/30

戦災に遭った大講堂(福澤研究センター蔵)

三田キャンパスの現在の西校舎の場所には、その昔「大講堂」と呼ばれる建物があった。1922年、アインシュタイン博士が講演を行ったことでも有名で、今でいう文化ホールのような建物である。

この大講堂は、今から約100年前、1915(大正4)年竣工、曾禰中條建設事務所の設計による、ゴシック様式、鉄骨レンガ造の建物である。2000人収容で、外観は瀟洒で華麗な建物であり、当時、図書館旧館と同じく三田キャンパスにおけるシンボル的な建物であった。残念ながら、大講堂は、1945(昭和20)年戦災による甚大な被害にあい、屋根が吹き飛び、柱と外壁しか残っていないような状況となった。終戦後しばらく放置されていたが、1957(昭和32)年に取り壊されている。

1945年の戦災によって同じように被害を受けた図書館旧館は、復興されたのに対して、なぜ大講堂は取り壊されてしまったのか。

管財部倉庫には、1947(昭和22)年から1953(昭和28)年に描かれた、3種類の大講堂の復興計画の図面が残っている。

1つ目は、1947(昭和22)年に安藤組(現安藤・間)により描かれている。元の建物の残っている柱や外壁を再利用し、従来の姿を忠実に再現し、復興する計画であった。2つ目は1950(昭和25)年斎藤誠二事務所により描かれたもので、外観イメージを残しつつ尖塔を設けるなど大胆な変更も施してある。3つ目は1953(昭和28)年に同じく、斎藤誠二事務所で描かれ、一旦解体し、そこにさらに大規模な3000人収容規模の講堂に建て替える計画である。外観は元の大講堂の玄関のみを再利用し、それ以外は大幅に変更したものとなっている。

ただ、この頃になると1958(昭和33)年の慶應義塾創立百年事業の計画が徐々に進められることとなった時期と重なる。結局、これら再建計画はすべて白紙となり、三菱地所による設計で、西校舎建設の計画が立てられた。

西校舎は、大小の教室数が24室あり、その他、食堂や課外活動室も備えるものである。大学の発展において、建物の大型化、教室数の確保が命題となり、百年事業では大学機能強化を目的として計画された。そのため、三田大講堂は役割を終え、再建することなく、解体されることとなった。実質30年ほどしか使われず、その短い役割を終えている。

もし、この大講堂が今でも残っていたならば、図書館旧館と同じく、重要文化財となっていたかもしれない。大講堂の屋上に飾られていたユニコン像は、現在中等部の玄関に置かれており、大講堂の存在を伝える唯一の遺構となっている。

(管財部 渡辺 浩史)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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