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【特別記事】きみは慶應高校を本当に知っているか──塾高創立年と野球部創部年の謎をめぐる冒険

2023/11/15

  • 七條 義夫(しちじょう よしお)

    慶應義塾高等学校教諭、前野球部長

この夏、慶應義塾社中は慶應義塾高校野球部の約1世紀ぶりの快挙に沸いた。「若き血」に甲子園球場が揺れた。KEIOのエンジョイ・ベースボールは猛暑の甲子園球場を飛び出し、日本中を席巻し、社会現象となった。

さて、甲子園出場が決まると新聞、雑誌、テレビ等から膨大なアンケートが届く。その中に必ずあるのが、学校創立年と野球部創部年の質問である。

慶應高校の場合は、新制高校なのだから、創立は慶應義塾第一高等学校、第二高等学校が誕生した1948年でよいではないかの声もある。たしかに慶應高校という名前は戦後のものだから、48年説はもっともである。事実、筆者が野球部長に就任した2002年時はどの学校紹介でも学校創立、創部共に1948年と書かれていた。

しかし、視点を変えて野球部を軸に歴史を振り返れば、戦後の学制改革によって6・3・3・4制が敷かれる前より慶應高校野球部は存在していた。慶應高校野球部は前身の旧制普通部、商工の時代を含めると春10回、夏19回の甲子園出場を誇る伝統校である。しかも、今回107年ぶりの優勝が全国的ニュースになったように、1916(大正5)年の第2回大会で優勝に輝いている。

戦後の学制改革によって、公立の旧制中学がそのまま高等学校に転換し、また多くの私立が5年制の中学を3・3の中高併設に改組するなか、慶應では普通部が新制の男子中学校になり、新制の高等学校として慶應一高、二高が「誕生」した経緯はすでに本誌5月号で詳述した。しかし、これをもって慶應高校「創立」を1948年とするならば、甲子園出場回数は半分以下になり、第2回大会優勝校としての栄誉も失ってしまうことになる。

では、仮に普通部が旧制中学相当の学校になった1898年「創立」ではどうだろうか。たしかに甲子園問題は解消されるが、しかし、それでは創部年の問題は解決されない。

それというのも、2022(令和4)年夏、三田の慶應義塾史展示館で開催された「慶應野球と近代日本」で、筆者はこれまで大学体育会野球部の起源とされる1888(明治21)年創設の「三田ベースボール倶楽部」の中心人物たちが、実は10代半ばの現在の高校生の年齢であり、慶應高校野球部の源流もそこにあることを突き止め、発表した。すなわち、野球部創部が1888年で、学校創立が1898年では辻褄が合わないのである。

そこで、野球部創部の1888年はそのままに、学校創立年を、発想を変えて、慶應義塾の始まりとされる1858年にしてみるならば、どうだろう。甲子園問題はもちろん、すべてがスッキリするではないか。

考えてみれば、大学だけが創立を1858年と唱えることで、今回のように、慶應義塾の一貫校は歴史的「矛盾」を抱えることがしばしばある(と思うがどうだろうか)。

戦後最長の4期(1977~93)に亘って慶應義塾長を務めた石川忠雄元塾長は『慶應義塾高等学校同窓会報第二回総会特集号』(1987)において以下のように語っている。「慶應義塾においては、国の憲法ともいうべき『慶應義塾規約』のなかで、大学も、高等学校も、普通部・中等部も、幼稚舎も、慶應義塾が設置する学校として、同格、同列に置かれている」。そして、次のように続ける。「(慶應高校は)他の大学に見られるような大学附属高校ではなく、独自のアイデンティティを確かになしているのである」と。慶應義塾の組織図を見ればわかるとおり、慶應高校は大学附属高校ではない。あえて言えば、大学同様、慶應義塾の一部であり、そのものでもある。

そもそも慶應義塾の一貫教育校はそれぞれの学校がそれぞれのアイデンティティを持ちながら、「福澤先生を共に創立者として仰ぎ、『慶應義塾の目的』で明らかにされている理念に基づく一貫性を持った共同体」である。つまり、慶應義塾においては、大学はもとより、普通部も塾高も、その他の一貫教育校もそれぞれの独自性と個別のミッションを持つ「慶應義塾」の一部なのである。だとしたら、慶應高校の創立を1858年として何の問題があるだろうか。

実際、これまで見てきたように、学校創立の起源を求めて、野球部を軸に時代を遡れば、新制高校誕生の1948年はもちろん、「甲子園」優勝時の1916年も、普通部が旧制中学校になった1898年も、体育会創設の1892年も軽々と通過して、三田ベースボール倶楽部誕生の1888年まではひとっ飛びだ。そこまでいけば、そもそも大学部も誕生していない。さらに遡上を続け、1858年に至れば、そこは塾生の年齢もまちまちの福澤塾の姿があるだけである。

国家が年齢別にカテゴリー化した(年齢主義)学校制度を作る前から慶應義塾は存在した。たとえるなら、慶應義塾は広く深い大河であり、時代の要請、時に国家の要請にあわせて、新たに学校(支流)を創り、再編(合流)したり、形体(流れ)を変えながら、時代を越えて大きく発展しながら今日に至っている。その川の1つが慶應高校であるが、その流れは今まで見てきたように、本流の慶應義塾の流れの一部であり、また、それと一体の本流そのものでもある。

結びに、初代校長寺尾琢磨の言葉を再び引用してこの「冒険」の頁を閉じたい。「新しくてしかも旧く、旧くてしかも新しい。これが(慶應)義塾高校の姿といえよう」。

まさに、言いえて絶妙。これ以上に慶應高校の姿を的確に表現している言葉もあるまい。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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