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「拝謁記」に見る昭和天皇の基礎科学観

2023/04/10

田島道治
  • 田島 圭介(たじま けいすけ)

    慶應義塾大学名誉教授

筆者の祖父である田島道治(たじまみちじ)は、太平洋戦争敗戦後、1948年からおよそ5年半にわたって宮内庁長官として新憲法に沿うように皇室の改革を行った。在任中、田島は昭和天皇との対話を「拝謁記」として、就任初期の頃を除いて、詳細に書き遺していた。また、戦後から1968年に死去するまで、プライベートなことも含めて簡略に記された田島の日記も現存している。

田島*1は1885年名古屋の生まれで、大学時代には新渡戸稲造の薫陶を受け、卒業後は愛知銀行に勤務していた。途中、銀行員を2年ほど中断して鉄道院で総裁の後藤新平の秘書官と人事課長を務め、後藤からも影響を受けている。昭和初期に金融恐慌が起こった時、日銀総裁井上準之助の命により愛知銀行から昭和銀行に移って倒産した中小銀行の破綻処理にあたったが、その仕事ぶりは精力的で厳しく、自宅に脅迫状が舞い込むほどであったと聞いている。

昭和銀行には太平洋戦争が勃発する3年前まで在職し、最後の何年かは頭取を務めた。戦後、難しい皇室改革が必要となった際、この昭和銀行時代の手腕を発揮することが期待されて宮内庁長官に任じられた、と筆者は思っている。就任後、宮中を改革して行くのと同時に皇太子(現上皇)の教育にも心を砕き、小泉信三に懇願して事実上の教育責任者(東宮御教育常時参与)になってもらっている。長官退任後はソニーの監査役、会長などを務めたが、皇太子妃の決定など、皇室の諸問題にも最後まで関わっていた。

田島が遺した拝謁記や日記などの資料は、田島宛書簡なども含めて専門家の編集のもと、『昭和天皇拝謁記』(全7巻)として岩波書店から現在刊行中であるが、すでに、昭和天皇の「生の声」や、「事務的な対話の域をはるかに超えた」内容を含んでいることに多くの驚きの声があがっている。筆者も、ゲラ刷りに目を通している段階で、昭和天皇が基礎科学を重要視し奨励している「生の声」に初めて接し、筆者自身物理学が専門であることもあり非常に印象的であった。

ここではその拝謁記や田島日記、更には書簡から見ることができる昭和天皇の基礎科学に対する姿勢を、我々が思い描く「昭和天皇像」の一面を表すものと考えて紹介しておく。

* * *

昭和天皇は生物学に興味を持ち、「拝謁記」の中で自分の生物学研究は「趣味程度」と語ってはいるが(「拝謁記」1950年7月5日条)熱心な基礎科学の研究者であった。皇居内には「生物学御研究所」もあり、もちろん公務優先ではあるが、週に何日か曜日を決めて研究に取り組んでいた(以下同、1953年4月2日条)。おそらく、研究に没頭できていた時が昭和天皇にとって最も楽しい時間であったに違いない。このようなことから基礎科学に対して理解があり、その奨励が重要であるという認識について、「拝謁記」中所々で田島に語っている。

(前日の学術会議会長の上奏に対して)「応用科学を奨励して基本科学を奨励せぬといふ話であつたが私は反対に思ふ。応用科学は応用される面からの刺激や便宜が自然与へられると思ふから、そういふものが与へられぬ、直ちに利益にならぬやうなものに奨励がされなければならぬ。」(1950年1月17日条)

(文化勲章など、研究者の評価の仕方に関連して)「どうも純正科学を比較的軽んじて応用科学を重んずる傾向は私はどうかと思ふ。勿論実用に役立つものを奨励するに異存はないが、同時に基本的の学問上の研究に重きをおくべきだと思ふ。」(同年5月2日条)

またこの際、ファラデー(電磁気学)やメンデル(遺伝学)の基礎研究が後にいかに有用な結果をもたらしたか、という例まで引き合いに出して強調している。それにしても、当時の学術会議の会長が「応用科学を奨励して基礎科学を奨励しない」という主旨をわざわざ上奏しているのにはびっくりし、戦後でいろいろ事情はあったのだろうが一体何のための学術会議会長なのか、と耳(目?)を疑ってしまう。

さらに、物理学者の仁科芳雄が亡くなった時、昭和天皇は田島に「惜しい事をした」と漏らしている(1951年1月11日条)。「拝謁記」の中で、昭和天皇が一般個人の死去を悼んでいる記述は仁科以外見当たらない。仁科は、優れた物理学者であったばかりでなく、太平洋戦争中にあっても基礎科学を重要視し奨励しなければならないことを軍部の目があったにもかかわらず説いていた人物であった*2。昭和天皇は基礎科学の重要性について仁科と考えを同じくし、また仁科の物理学界への大きな貢献と合わせて特にその死を悼んだと思われる。仁科の死の直後、おそらく昭和天皇の何らかの意向を受けたのであろう、田島の日記にも仁科の名前が記されていて(1951年1月12日条、同年1月13日条)、告別式に田島が参列している(同年1月14日条)。

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