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法学者ボワソナードと慶應義塾と高輪築堤、そして横浜 ──『ボワソナードとその民法』の「新発見」

2021/11/18

  • 池田 眞朗(いけだ まさお)

    武蔵野大学教授、慶應義塾大学名誉教授

プロローグ

「窓を開(ひら)けば海が見えるよ」──青柳瑞穂作詞・菅原明朗作曲『丘の上』の一節である。これは虚構ではない。三田キャンパスからは実際に海が見えたのである。早慶戦に勝ったときに歌う慶應義塾のカレッジソング『丘の上』ができたのは、昭和3(1928)年、その時代は、キャンパスの南面は海に向かって開けていた。

ましてや明治時代には、もちろん街中には木造の平屋か二階建て程度の建築がほとんどだったので、三田キャンパスは文字通りの「山」であった。慶應義塾図書館(旧館)の、明治45(1912)年の完成当時には、山上に屹立するゴシック様式の西洋館の、海側から見た遠景の写真が残っている。

昨年2020年、コロナ禍の中で新聞やテレビを一時にぎわせたのは、「高輪築堤」の遺構発見のニュースであった。かつての新橋・横浜間の鉄道が、現在の品川・田町間のあたりで、海の中の築堤を走っていたのだ。おそらく、当時の慶應義塾図書館は汽車の中からもよく見えただろう。ニュースが流れたちょうどその頃、私の机の上では、専門の民法に関するお雇い外国人ボワソナードの研究と、慶應義塾と、高輪築堤の話との3つを奇しくも結びつけることになる拙著『ボワソナードとその民法〔増補完結版〕』(慶應義塾大学出版会)の執筆が進んでいた。

ここでは、本年9月に出版された学術書には一部しか書けなかった、いくつかの「新発見」の続きを書いておきたい。キーワードは「海の見える丘」。まだ図書館は建っていない、明治25(1892)年頃の話である。

日本近代法の父

ボワソナード(ギュスターブ・エミール・ボワソナード・ド・フォンタラビー、1825-1910)という名は、法学部で民法を学んだ人ならば何度か目にした名前であろう。明治政府のいわゆるお雇い外国人の中で別格の働きをしたフランス人法学者である。当時の活躍は「法曹界の団十郎」とうたわれ、旧民法典、旧刑法典などの起草だけでなく、法学教育から外交交渉まで多大の貢献をした。

彼は明治6(1873)年の来日翌年の対清交渉から大久保利通に重用される。そして最大の業績である旧民法典は、公布された後に法典論争で幻となったと言われるが、実際には日本人委員の手で「修正」されたのであり、現代にまでつながる明治民法典にかなりの条文が残っている。結局彼は日本には22年の長きにわたって滞在し、「日本近代法の父」と呼ばれる。

私が民法解釈学と歴史をつなぐボワソナードの研究に手を染めたのは、昭和50(1975)年、大学院生になった頃である。民法学の恩師内池慶四郎博士と、明治法制史の泰斗手塚豊博士の指導で始めたこの研究は、ようやく2011年出版の論文集『ボワソナードとその民法』に結実したのだが、今回それに4カ章約200頁を書き加えた〔増補完結版〕を上梓することになった。この〔増補完結版〕で、日本の旧慣を巡って、日本滞在最晩年のボワソナードと、明治23(1890)年創設の慶應義塾大学部法律科の主任教授として来日したウィグモアとの往復書簡に触れることになり(現常任理事岩谷十郎教授の論考による)、それが、高輪築堤を通っていた鉄道の話につながり、終点前の神奈川停車場の話にまでつながったのである。

ボワソナードとウィグモア

ジョン・ヘンリー・ウィグモアは、明治23(1890)年(これはボワソナードの起草した旧民法典が公布されたその年である)に新設された慶應義塾の「大学部・法律科」の主任教授としてハーバード大学から招聘された。大学部創設を決意した福澤諭吉は、ハーバード大学学長エリオットに、理財科、文学科、法律科の3名の主任教授の派遣を要請する。その3名の中で最も若いメンバーとして来日したのが、26歳のウィグモアだったのである。

ちなみに、当時私立法学校がすべて、日本語でフランス法やイギリス法、また編纂中のボワソナード旧民法の草案などを教授していたのに対し、福澤はウィグモアにすべて英語で、(日本の当時の制定法や草案と関係のない)英米法を教授させる。しかも月謝は他の私立法学校の3倍、入試科目は帝国大学を除けば比類のない10科目、という徹底ぶりであった。その結果、当然のことながら、慶應義塾大学部法律科は、当時、最後発の私立法学校にして極端に学生数の少ない学校となるのである。しかしその比類のない発想が、現代日本の私立文系大学最難関とも言われる法学部法律学科の発展につながり、合格者数・合格率でトップを競う法科大学院の隆昌につながっている。

ウィグモアは、帰国後にシカゴのノースウエスタン大学の教授となり、法制史や証拠法の大家となった人物であるが、来日後、日本の旧慣に興味を持って研究を始め、ボアソナードに手紙を書いて教えを乞うのである。その詳細を明らかにしたのが、岩谷教授の20年前の研究であった(岩谷十郎「ウィグモア宛ボアソナード書簡14通の解題的研究―民法典論争と2人の外国人法律家―」法学研究73巻11号)。

神奈川・高島山

そのウィグモアに対するボアソナードからの2通目の返信(1891〔明治24〕年2月)の書簡には、発信地について「Kanagawa, Takashima yama」という記載がある。この「神奈川、高島山」について岩谷教授は、地名辞典の解説を引用して「現在は高島台と呼ばれ、横浜市神奈川区の南部にあり、西区との接点に位置する標高40メートル余りの高台。その名の由来は、明治初期に高島町の埋立てを行った際、高島嘉右衛門がこの高台から指揮を下し、また後年そこに居住したことに発する」とした上で、「この高台の下をめぐるようにして東海道がはしり、駅前には湾が大きく広がっていた」と注記している。

その先を私が続けてみよう。岩谷教授が掲げるボワソナード書簡8通目の、明治25(1892)年11月23日付けの書簡の末尾には、「私もまた、毎火曜日と金曜日、10時半から正午まで、司法省にまいります」という一文がある。当時の地図と比照すれば、高島山(高島台)を降りたあたりが、明治5年開通の新橋(現汐留)横浜(現桜木町)間の鉄道の終点前の途中駅、神奈川停車場のあったところなのである(現在の横浜駅から少し東京側に寄った位置)。ということは、ボワソナードは、明治22年の一時帰国・再来日以後、いつからかはわからないが、旧民法典が公布された後の明治24年2月には、既にこの高島山(後述する高島嘉右衛門別邸)に居住して、鉄道で司法省に「通勤」していたということであろう。

そして翌明治25年11月頃には、「毎火曜日と金曜日、10時半から正午まで、司法省にまいります」というのであるから、その出勤は週2回、各1時間半ずつにすぎないという状況であったわけである。一時は「法曹界の団十郎」ともてはやされ、多忙を極めたボアソナードの、旧民法典施行延期決定後の明治政府の処遇が、ここに垣間見られるようである。

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