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【書評】『福澤諭吉の思想的格闘──生と死を超えて』(松沢弘陽著)

2021/06/18

以上のような本書の福澤論につき、その視点に関して2つの点を考えてみたい。

第1点は、政治思想の視点が貫かれているという点である。経済思想は、人と物との関係から始まるが、政治思想は人と人との関係から始まる。ロビンソン・クルーソーは、孤島に一人であった時にも、経済生活を行い経済に思いをめぐらせていた。一人ではあっても彼の経済思想はあったのである。それに対して、ロビンソンにとって政治思想が始まるのはフライデーの出現以降である。その点で人と人との関係・・・・・・・である自発的結社の形成に福澤の思想の核心を見たのは、まさに政治思想の切り口だと言える。

また、福澤による自発的結社の意味づけを、しばしば狭義の政治との関係から考えているのも同様である。自発的結社についての著者の関心の1つは、「政治的に・・・・議論する市民的公衆」(141頁)、「固有の公共的機能を分担する・・・・・・・・・自発的自治的結社」(143頁)という表現に見るように、市民から政治への働きかけ・・・・・・・・という面にある。また、それは現代における「さまざまな市民自治やNGO」(308頁)の意義を考えることにもつながっている。この関心から著者は、福澤が自発的結社に関して、それを「英国政治の基本原理」(138頁)と考えている点に注目し、また、「政府の権力を「抑制」」し日本に真の意味での「議会政を実現させる遠大な構想」(107─108頁)や、「政府の「過強」に対する「平均」の機能」(114頁)と結びつけている点に特に光をあてている。もちろん福澤の思想にはその面もあり、それを折出した本書の研究史上の意義は大きい。しかし同時に、福澤の主眼が、まずは民間諸活動そのものに向いていた場合もある。狭義の政治の変革はその民間諸活動の付随的な結果であり、政治の変革を目指して民間諸活動を奨励したのではない面もあった。

第2点は、福澤の思想における、天賦人権論・自然権・社会契約論的な発想から自発的結社を重視する思想への転換点についてである。いうまでもなく自発的結社は、「長い「習慣」の所産」(85頁)であり、それぞれの社会で歴史的に形成されるものである。当然、天賦のものではない。この点に関して、著者は第三章において、『学問のすゝめ』の前半(特に第八編以前)以前においては、福澤の思想には、ウェーランド等の影響の下、自然権と社会契約論の思想が見られると考えている。その福澤が、ミル、ギゾー、トクヴィルなどを読み、『学問のすゝめ』後半や『文明論之概略』以降では、社会契約論的な思想から脱却したとみている。当然、この脱却の先に歴史的な形成物である自発的結社の真の意味での重視の視点が生まれるというのが、おそらく著者の視点だろう。

この点に関する著者の分析は、福澤の西洋思想摂取の経過を実証的に押さえており、瑕疵のあるものではない。しかし分析の別の視点もありえない訳ではない。例えば、筆者は、中津で徂徠学や仁斎学の書を読み、緒方塾で経験的自然科学の洗礼を受けた福澤には、はやくから自然権や天賦人権論のような実証不能な超越的な真理に対する不信が根強くあったのではないかと考えている。周知のように『学問のすゝめ』冒頭には「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと云えり・・・・」とあるが、わざわざ「と云えり」とつけたのは、天賦人権論は一つの説であるという福澤の醒めた目を示していないだろうか。実際、初編のその後の行論を見れば冒頭の一文は話を始める枕にしか過ぎない。同様に、『学問のすゝめ』前半以前における、一見自然権・社会契約論的な文章も、議論の出発点を設定し、それに続けて経験的・歴史的な議論をすすめるための便宜のため、そのような文章を書いているとも取れる。もちろんこの例は、筆者の思いつきに近いもので、著者のような実証によるものではないが、別の視点もありうるということを示すために、蛇足をかえりみずここに書いた。

以上のように、本書における著者の視点が福澤分析の唯一のものではないが、本書は、その実証の緻密さを超えて、さらにその上に読者に迫ってくるものを持っている。それは、全編を通じて「一人の市民としての私」(307頁)が「現代の社会に生きて、そして死んでゆく、そういう一人の人間にとって福澤は何を意味しているだろうか」(268頁)ということを真摯に問い続けているからである。その意味で、本書は、文明の「始造」に向かっての福澤の思想的格闘を示すと同時に、著者が福澤を通して現代社会と自分を考え続けた、その思想的格闘を綴った書でもある。

本誌の読者のような慶應義塾の近くにいるものは、常に「福澤「亜流」による「教祖」化がもたらす歪曲の問題」(319頁)に陥りがちである。そのような陥穽を避けるためにも、現代社会において福澤の意味を真摯に考えようとしている本書を読むことをぜひ勧めたい。

『福澤諭吉の思想的格闘──生と死を超えて』(松沢弘陽著)
小室 正紀
岩波書店
438ページ、10,450円〈税込〉


※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。
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