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【Keio Report】慶應ミュージアムコモンズ(KeMCo)建設地内における発掘調査について

2019/11/23

まず、江戸時代では、建物跡や穴倉、ゴミ穴などの300を超える遺構が検出され、コンテナ百箱以上の遺物が出土した。出土遺物からは17世紀後半から町屋が形成されていたことが推測でき、18世紀以降は複数の土蔵の存在から比較的裕福な町民が暮らしていたと想定される。焼けた瓦が廃棄されたゴミ穴が目立ち、一帯で火災が頻発していた様子も垣間見えた。土蔵以外の建物跡はなく、それらは現在より幅が狭かった三田通りに面していたものと思われる。いずれにせよ今後の整理作業を通して三田界隈における町屋の暮らしの一端が明らかになると期待している。

この発掘でとりわけ注目を集めたのは、平安時代以前の遺構・遺物であった。現状では遺構の時期や相互の関係等の分析が未了なため、ここでは便宜的に古代の溝(みぞ)と弥生~古墳時代の竪穴住居跡に分けて紹介しておく。

溝は、幅3m以上の比較的大きなもので、三田通りに向かって直線的に伸びていた。何らかの施設の区画溝あるいは道と考えられる。この溝が注目を集めたのは、溝内外から円面硯(えんめんけん)と呼ばれる硯や緑釉(りょくゆう)陶器など、一般的な集落遺跡では稀な遺物が複数出土したことである。これらは、官衙(かんが)や寺院などで出土することが多く、港区内では初の発見となった。この溝を備えた施設の性格については、今後慎重に検討していくことになるが、今回の成果が、これまであまり進んでいなかった古代武蔵国荏原郡一帯の地方官制、交通制度の研究に一石を投じるものになることは間違いない。

古代(奈良・平安時代)の溝

一方、竪穴住居跡は、遺存状態が悪かったものの調査区内に5基以上存在していたと考えられる。一部が弥生時代終末期(3世紀)に遡る可能性があり、以後、古墳時代前期(4世紀)、古墳時代終末期(7世紀)のものなどが含まれているようである。南関東では低地における弥生~古墳時代の集落遺跡の調査例が少なく、該期の集落の立地や構造の解明につながる貴重な事例の1つになった。

なお、調査では、以上のような人間の活動の痕跡とは別に、数万年間の地形・環境の変遷を解明する手がかりとなる地層の堆積が確認され、その分析用サンプルの採取なども行った。

以上、KeMCo 建設地内の発掘調査について簡単に紹介してみた。長い歴史をもつ塾の考古学や日本史研究の先達たちも、足元にこのような遺跡が眠っていたことを夢にも思っていなかっただろう。先述のとおり具体的な調査成果は、整理作業後、2020年に報告する予定になっている。乞うご期待。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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