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【新 慶應義塾豆百科】
日本最初の図書館学校

2024/02/29

日本図書館学校(慶應義塾大学文学部図書館学科)が入った5号館(三田)

昭和26(1951)年4月7日、慶應義塾大学文学部図書館学科(ジャパン・ライブラリー・スクール)が開講した。当時の『慶應義塾総覧』によると「全国から代表的な学生を募集する所謂『日本図書館学校』であって本校の教授たちは国内の各種図書館の司書に助言と指導を与えている」と記されている。前年、連合国軍総司令部の占領政策の一環で図書館の振興が考えられ、それを託されたアメリカ図書館協会が日本にライブラリースクールを設置することを目指して調査を行うことになり、ワシントン大学のロバート・ギトラーがその任にあたった。複数大学の候補のなか、最終的に「新しい学問を受け入れるにふさわしい進取の学風」との理由で義塾に開設が決まり、2月5日に公式に通知された。3月8日の朝日新聞には募集の公告が掲載された。「米人教授団による日本最初の図書館学校、第三学年編入者願書受付〆切四月七日、編入学資格、新制大学二年終了以上並びにこれと同等以上の者」とあった。非常にタイトなスケジュールだった。主たる経営は当初は米国政府の援助で、占領終結後援助が打ち切られると、ロックフェラー財団の助成金と本塾の経費で賄われた。教授陣はギトラーを主任教授とする米国人、カナダ人の訪問教授で、講義は英語で行われ、日本人の通訳が立ち合い、テキストの翻訳も行っていた。当時の写真には、ハイキングやフォークダンスで教授たちと交流する様子も見られる。

日本図書館学校は大学の学科レベルで行われる図書館学の専門教育の先駆けとなったため、当初の数年は図書館の現職者の再教育を目的とする特修生制度も設けられ、年齢、経歴も様々な学生が集まった。校舎は塾監局南側の木造校舎5号館があてられた。ギトラーは5年在籍し、学科の基礎をつくり、1961年には日本政府から秋の叙勲を受けている。

米国では図書館員の人材養成のための様々なレベルでの長い歴史があるが、専門的職業として図書館員の養成が開始され、大学で図書館学が開講されたのは19世紀終盤であった。我が国においては、1903年図書館事項講習会が開催され、1911年には図書館員養成所設置委員会を設け、東京帝国大学では図書館学の講義も行われたが、正式には大正10(1921)年の文部省図書館員教習所の発足を待つこととなった。それも戦争で立ち消え、戦後1947年5月帝国図書館付属図書館職員養成所として再開された。ここは新制高校卒業生を受け入れる各種学校と位置付けられた。のちの国立図書館短期大学である。

占領政策の一環に端を発する日本図書館学校は徐々に日本側への円滑な移行が進められ、1967年には大学修士課程が設置され、研究者養成も始まった。その翌年には図書館・情報学科へと改組された。

(元広報室長・石黒敦子)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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