三田評論ONLINE

【新 慶應義塾豆百科】
信濃町の地下道

2022/03/31

地下道内部通路

信濃町キャンパスの敷地は、道路を挟んで1号館や2号館がある「信濃町敷地」と北里記念図書館や3号館がある「大京町敷地」にわかれている。2号館と3号館の間のブリッジで道路を渡らずに行き来できるが、敷地を隔てている道路の下に、現在は本来の機能として使われていない地下道があるのをご存知だろうか。

臨時建築物であった大京町の西病舎の使用期限が1931年であるため、これを解体して別館(着工時は同じ西病舎と呼称)が1932年に建設された。この建設時に「西病舎在来病棟連絡用地下道」として同時に建てられた施設が「信濃町の地下道」である。地下道通路部分は長さ23m、幅2.1mのスロープ状である。信濃町側は、本館と呼ばれていた病棟のうち「は号病棟」に最も近く、階段のほかエレベーターで地下へ降りることができた。大京町側は別館の地下階に繋がっていて、別館正面玄関の車寄せ部分には、地下道へ光を取り入れるトップライトが設けられていた。本誌、2018年12月号掲載の慶應看護100年インタビュー「戦時に小泉信三先生を看護して」では、夜間の空襲の際に真っ暗な地下道を通って別館へ患者さんを避難させた苦労話が語られており、多くの人が通行していたことがうかがえる。

第2次世界大戦で大学病院は6割以上が被害を受け、「は号病棟」も焼失した。その跡地に1948年に病院本館が建設されたが、この本館とも地下道は隣接しており、大京町側との通行に使われた。

義塾創立125年記念の最大の事業として1986年に竣工した大学病院新棟(現在の2号館)では、地下階のドライエリアから出入りする形で地下道は接していた。看護部の方によると患者さんが通ることはなく、病院教職員や学生が使用していたが、怖いので看護師と厚生女子学院生は雨の日くらいしか使用せず、全体として利用者は少ない印象とのことであった。また、別館病棟へ食事を運ぶカートも通行していた。

2012年に竣工した3号館(南棟)の計画の際には、この地下道の活用について諸々検討が行われた。しかし、天井が低い上にスロープ勾配がきつくストレッチャーなどの通行には適しておらず、何より3号館側に地下階がない計画になったことから、通行路としての利用は断念して、大京町敷地への電気配管を通すパイプスペースとして有効活用することとした。2号館側の扉はそのままであるが3号館側はコンクリート壁で閉ざされている。

こうして信濃町の地下道は、その本来の役目を終えた訳であるが、間もなく築後90年となり、キャンパスでも予防医学校舎の次に古い施設である。その内、信濃町キャンパスで最も古い歴史的施設になるかもしれない。

(塾監局参事 矢ノ目 優)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

  • 1
カテゴリ
三田評論のコーナー

本誌を購入する

関連コンテンツ

最新記事