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【義塾を訪れた外国人】
デ・カステッロ大司教:義塾を訪れた外国人

2022/07/21

  • 表 實(おもて みのる)

    慶應義塾大学名誉教授

世界天文年の日吉での講演

駐日ローマ教皇庁大使アルベルト・ボッターリ・デ・カステッロ大司教による講演「ガリレオ裁判──その歴史と意義」が、2009年10月31日、日吉キャンパスで行われた。

科学と宗教をめぐる問題は古くて新しい問題である。「ガリレオ裁判」と呼ばれているローマ教皇庁の検邪審問所(異端審問所)が行った宗教裁判は、地動説と天動説のどちらが正しいかの論争をめぐる宗教と科学の対立を教会側が裁いたもので、ガリレオは教会からの弾圧に勇敢に戦った英雄的な科学者であるというが一般的な見方である。裁判で有罪判決を受けたとき、「それでも地球は動いている」とガリレオがつぶやいたという逸話はガリレオの勇敢さを表す言葉としてあまりにも有名である。

一方で、ガリレオがカスッテリ神父に送った手紙では「聖書と自然は共に神の言葉から発したものであります。聖書は精霊の命ずるままに書かれたものであり、自然は神の命令の忠実な実行者である」と述べていることからもわかるように、聖書を軽んずるようなことはなかったというのが、教会と対立することに精力を注いだと見られているガリレオの真の姿と言えるかもしれない(「それでも地球……」はガリレオが実際に呟いたものではなく、後世になって他人によって作られたものであるとみなされている)。

ガリレオ裁判から360年後の1992年10月31日に行われたローマ教皇ヨハネ・パウロ2世の「ガリレオ裁判の誤りを認めた」最終声明が出たことで、科学と宗教をめぐる論争に終止符が打たれただけでなく、「ガリレオは英雄的な科学者だったのか、それとも聖書に異議を唱える異端者であったのか」に決着がついた。

2009年は世界天文年であることから、この年に開催されるガリレオ裁判に関する講演は、「ガリレオ裁判の真実」を探る良い機会であった。この問題を語るに適任と思われる駐日教皇庁大使アルベルト・ボッターリ・デ・カステッロ大司教に、イタリア大使館を通してこの講演の講師をお願いしたところ、快諾が得られ、大使の慶應義塾訪問が実現した。

大使は1942年イタリア・モンテベッルーナ(トレヴィゾ県)に生まれた。1966年に司祭に叙階、その後グレゴリアン大学で教会法、教皇庁聖職者アカデミーにて外交政策を学んだ。世界各地に赴任し、2000年には教皇ヨハネ・パウロ2世によりサンピエトロ大聖堂の大司教に任じられる。2005年から11年まで駐日教皇大使を務めた。

ガリレオ裁判とは

世に言われているガリレオ裁判には、1616年の第1回裁判と、1633年の第2回裁判がある。第1回の裁判は、ガリレオが自作の望遠鏡を使って観測した天界の観測事実に基づいて地動説を支持し、聖書の記述に基づいた天動説は誤りであると主張したことが、聖書の教えに逆らう異端的な振る舞いであるとして注意を受けたことである。この裁判の結果を受けて、ガリレオは暫く地動説を主張することも、書物にその説を書くことも自粛していたが、1632年になって書籍『天文対話』を出版した。

この本は、第1回の裁判で示された教会の意向に配慮し、地動説をあからさまに支持していると見られないために、地動説を支持する人と、天動説を支持する人、および2人の間を取り持つ人の3人を登場させ、これら3人の対話という形式で書かれていた。この配慮が功を奏し、『天文対話』は一旦は出版が許可されたが、それがラテン語ではなく日常使用されているイタリア語で書かれていて読みやすく、多くの人々に読まれたことから、地動説を支持する人たちが多くなることを危惧した教会によって、再度ガリレオは審問所に召喚されることになった。

これが第2回の裁判である。この裁判は、「地動説が正しいのか、それとも天動説が正しいのか」という科学的な議論だけではなく、主に彼が第1回の裁判の評決を尊重して行動したか否かが問われたものであった。ガリレオは、第1回の裁判の判決では、地動説を支持する書籍の出版は禁止されていないという抗弁書を提出して反論したが、ガリレオの反論は採用されず有罪が宣告された。

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