【義塾を訪れた外国人】
ベネディクト・アンダーソン:義塾を訪れた外国人
2020/03/12
2007年3月27日午前、慶應義塾大学三田キャンパス西校舎ホールは期待感にあふれる空気に包まれていた。そこには塾生はもちろんのこと、一目彼のことを見たい、彼の話を聴きたいという聴衆が詰めかけていた。講演後にはサインを求める長蛇の列ができた。
一連の挨拶のあと、主役のベネディクト・アンダーソン教授が壇上でゆっくりと歩み始めると、西校舎ホールが静まりかえった。静寂のなか、彼はいつものように講演原稿を広げて、そこに目を落としながらゆっくりと語りかけるように口を開いた。
演題は「ナショナリズムのゆくえ」(“Can Nationalism (in Asia) Still Change?”)であった*1。これは会議の主催者であったわたしが、「アジアのナショナリズムの面白さについて語ってほしい」と個人的に依頼した内容を勘案して、彼が考えた題であった。ナショナリズムを長期の歴史的な文脈に位置づけ、21世紀アジアのナショナリズムの動向を明示するという切り口であった。
150年記念事業
アンダーソン教授の来塾は、慶應義塾創立150年記念未来先導基金プログラムの一環として実現した。プログラムは「変わりゆくナショナリズムとアジア」と題して、3月26日と27日の2日間にわたって開催された。
プログラム自体はワークショップと講演会という2本立てであった。ワークショップでは、アジアにおけるナショナリズムのダイナミズムを理論・歴史・実証の観点から検証し、アジアとナショナリズムの未来像を探った。論文選考で選抜されたアジア、オセアニア、アメリカからの大学院生が活発な意見を交わした。ワークショップのコメンテーターには、アンダーソン教授とインド史研究の大家ニコラス・ダークス教授(当時米コロンビア大学)を招聘し、個々の論文やセッションごとに建設的かつ批判的なコメントをいただいた。講演会は3月26日にダークス教授、27日アンダーソン教授を講師として開催した。冒頭の光景は2日目午前中の講演の模様を描いたものである。
ところで、アンダーソン教授の宿は芝公園のザ・プリンス パークタワー東京だった。当初ホテルとキャンパスの移動はタクシー使用を予定していたが、彼は歩きたいといった。すでに一度心臓発作を経験しており、主治医からは食事と適度な運動という指導を受けていたからである。滞在期間中はとにかく歩くことにこだわり、あるときは食後に小1時間外気を楽しむこともあった。その傍らにはいつも学生がいた。
アンダーソン教授は学生と議論することを好んだ。数時間にわたるワークショップの疲れも見せず、彼は2晩ともワークショップ参加者と居酒屋へ繰り出した。彼の気さくな人柄と、ウイットに富み歯に衣着せぬ物言いは、大学院生たちの心を自然と開いていった。そこには、彼らからの質問攻めをかわしながら、自分からパズルを投げかける、いつもながらの光景があった。
東南アジアへの関心
アンダーソン教授は、イギリス人の母、イギリス系アイルランド人の父のもと、1936年8月26日、中国の昆明で生を受けた*2。上海、カリフォルニア、コロラド、ロンドン、ウォーターフォードで幼少期から少年期を過ごした。ケンブリッジ大学で古典を修め、58年1月コーネル大学大学院へ進学した。そこで彼は東南アジア地域研究と出会った。1961年から64年、彼はインドネシアで現地調査をおこなった。インドネシア語のみならずジャワ語を駆使して、彼はインドネシア中をバイクで走り回った。ところが、65年9月のクーデターに関する報告書が発禁処分となり、72年から27年間ものあいだ、彼はインドネシアに足を踏み入れることができなかった。その間、彼はタイとフィリピンへと関心を広げた。
1976年にはコーネル大学政治学部教授となり、以前にも増して同時代の政治状況、とりわけ権力の暴挙に対する批判的な発言に鋭さが増した。彼の東南アジア地域研究は、奇抜な比較の視点と独特な語り口で構成されていた*3。
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山本 信人(やまもと のぶと)
慶應義塾大学法学部教授