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【義塾を訪れた外国人】
セルゲイ・イリユーシン:義塾を訪れた外国人

2018/11/13

来塾の経緯と塾工学部の状況

セルゲイ・イリユーシンの義塾訪問は佐藤常三の世話によると思われるものの、イリユーシン本人の希望もあったかもしれない。というのは第2次大戦後の塾工学部の教授陣には航空工学に関係する著名な人々もいたからである。

塾工学部は藤原工業大学として戦時中の1939年に創設され、第2次大戦の末期、第1期生の卒業する1944年に慶應義塾に寄附された。藤原工大の初代学部長は海軍技術中将の谷村豊太郎であった。しかし戦争末期に米軍機による空襲でほとんどの校舎や設備を失い、戦後の慶應義塾では工学部の廃止も話題に上がっていたらしい。事実、まだ新設後間もない冶金工学科は廃止されてしまった。

この苦境の中で、工学部再建のために昭和22年に新学部長に迎えられたのが、元東京帝国大学工学部長の丹羽重光(にわしげてる)であった。丹羽は小金井キャンパスや教授陣の一応の整備を終えて引退したが、筆者が1960年に学生新聞の記事を書くために訪問した時に、次のような印象的な話をされた。

「大学で最も重要なのは先生だ。瀕死の工学部再建のために私がまず考えたことは先生の先生を招くことだった。当時の3学科に1人ずつ先生の先生を招いた。」

そしてこの時に機械工学科に招かれたのが栖原(すはら)豊太郎であった。栖原豊太郎は1916年に東大に初めて航空工学科を設立するための調査委員の一人であった。他に委員には田中舘愛橘(たなかだてあいきつ)、寺田寅彦ほかがいた(日本機械学会誌「日本における航空学研究の初期と航空研究所および航空学教室創設のころの回想」1961)。因みに田中舘愛橘は若い頃、慶應義塾に学んだこともある。

栖原は1929(昭和4)年度に「特殊高速活動写真撮影機の発明製作」で朝日賞を受けている。この装置は秒速1万枚の撮影が可能で、弾丸など超高速飛翔体の撮影を行える世界的な発明であった。航空工学に大きな貢献をしたと思われる。占領軍による航空工学の禁止命令で、この超高速度撮影装置も塾小金井キャンパスに移設されていた。筆者は学生実習でこの装置を見学させられたが、円盤に多数の感光フィルムを張り付けて超高速で回転させて撮影するものだった。後年、東大に返還された。

栖原は日本の航空工学の立役者の1人で海外にも知られていたと思われるが、イリユーシン来訪時には既に塾を退職していた。塾機械工学科には渡部一郎などもいた。渡部は戦争中は東大航空研究所で世界記録の長距離機の過給機の開発に従事し、GHQによる航空研究所の解体後、塾に移った(「日本機械学会誌座談会記録(1942)」、「航空ファン」誌など)。

このほか塾工学部には潜水艦防振などでも知られた鬼頭史城や、中島飛行機で日本最初のジェット・エンジン開発にも加わったことのある佐藤豪などもいたし、非常勤講師には山本峰雄ら戦時中の航空工学関係者が何人も教えていた。

また、戦争中の軍事研究の装置・機器は占領軍によって廃棄命令が出たり、研究禁止で廃棄されたりしたが、重要装置の一部は小金井キャンパスにも移管保存されていた。

例えば、世界記録を樹立した航空研の長距離機の機体部分は羽田空港に保管後に廃棄されたというが、エンジンの1つは小金井キャンパスに戦後長く保管されていた。それは矢上キャンパスに持ってこられたが、後に他大へ譲られたのは残念であった。

左から佐藤常三、荒井定吉、イリユーシン(萬來舍にて)

その他

イリユーシンの塾訪問の世話をした佐藤常三は、冷戦下の困難な時代にソ連との学術交流に熱心に貢献をした。彼は第2次大戦前に京大理学部卒業後、旧満州の奉天(現在の瀋陽)で応用数学の研究をする傍らロシア語を習得した。戦後早大教授となり、塾工学部では講師として応用数学を教えていた。

国際的な学者で、泊まり込みの研究熱心さで有名で、筆者もある日早大の佐藤教授室の扉を開けたら、眼の前に山積みの書籍のほか鍋や皿が置かれ、洗濯物がぶら下がっていて仰天した。1959年頃、塾工学部では彼の勧めで初めてロシア語講座が開設されたが、佐藤が紹介した講師がロシア演劇・バレエに造詣の深い早大教授野崎韶夫(よしお)であった。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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