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【義塾を訪れた外国人】
ジョセフ・ナイ:義塾を訪れた外国人

2018/10/11

名誉博士号と尖閣

ナイが慶應を訪れたのは、そのオバマ政権下の2010年10月20日、名誉博士号の授与式に出席し、それに続く記念講演を行うためであった。国分良成法学部長から、講演会の司会をするとともに、事前の準備に加わるように言われた私は、当日の都内のホテルで開かれた別の講演会場にナイ教授を出迎えに行った。初対面だったが、アメリカ人らしい気さくな人柄で難しいことは何もなかった。そのため三田に向かう自動車の中でも談笑が続き、車が近くまで来たら連絡を入れる手はずになっていたのを、うっかり忘れてしまったくらいである。

演説館で開かれた学位授与式では、同僚の宮岡勲教授が司会を務め、コーラスの声が心地よく響く中で一同が入場し、清家塾長の式辞、学位記の授与などが予定通り執り行われた。そして会場を北館ホールに移して、ナイ教授の記念講演会が始まった。気の張るような式典も英語も不得手な私だが、とうとう出番である。ホールは完全に満員で、入りきらなかった多くの学生は、場外からモニターを通じて講演の模様を聞いていたらしい。前の方の来賓席には、ジョン・ルース駐日アメリカ大使、大使夫人、その他アメリカ政府関係者がずらりと並んでいた。また、会場にはたまたま来日中で慶應でも授業をしてくれていた、『国際紛争』の共同執筆者のウェルチ教授、また同書の邦訳者の一人である東京大学の田中明彦教授など、この世界の有力者の姿が多数見えた。

2010年のその頃、丁度日本は民主党政権下にあり、何かと人騒がせな鳩山由紀夫首相はすでに政権から降りていたものの、依然として日米関係について日本発の不安が強かった時期である。そして前月には、尖閣沖で海上保安庁の巡視船に体当たりをした中国漁船の船長を逮捕したものの、中国側の激しい圧迫に耐えかねて、日本政府は船長の釈放を余儀なくされる、という一大事件が起こっていた。その中でナイ教授の講演内容は、日米関係や重要性を強調する内容だった(本誌2011年1月号に収録)。また、近年アメリカへの日本からの留学生が減っていることを危惧する発言もあった。事前に何の手はずを整えたわけでもないが、質疑の時間になるとフロアから大変面白い質問があった。学生の一人が、「日米同盟は、中国が民主化すると、意味がなくなり終わりになるのか」と尋ねたのである。これに対して、ナイ教授はややしどろもどろ気味になって、「それには時間がかかるだろうし、いずれにせよ民主的な中国は今よりずっと扱いやすいはずだ」と応じたのを憶えている。

三田山上にて 左に清家塾長、右に国分法学部長
満員となった北館ホールでの記念講演

座談会と夕食会

さて一連の公式の行事が終わり、この後は法学部の一部教員との夕食会が予定されていた。しかし折角ナイ教授のみならず、ウェルチ教授、田中教授も一堂に会しているのである。講演会後のわずかな時間を利用して、私も加わって図書館旧館の一室で座談会を設定することにした。さすがに話が面白くて、談論風発になってしまった。どうやってまとめればよいかと気になったが、当日座談を傍聴してくれた大学院生たちが、大変上手く原稿にまとめてくれた(その内容は雑誌『アステイオン』74号、2011年に収録されている)。

夕食会の席では国分法学部長やウェルチ教授など、7、8人がテーブルを囲んだ。その席での話の内容はほとんど憶えていないが、中国漁船事件の顚末について、ナイ教授が、日本はこれで良かったのではないかという趣旨のことを言ったのに対して、日本にとって良いかどうかはともかく、中国にとってはいわば「オウンゴールだ」と思うと私が言うと、クールなナイ教授が珍しく大笑いして「その通り」と応じてくれたのが記憶に残っている。

翌年3月、東日本大震災の直後にモントリオールで開かれたISA(International Studies Association)の会合で、私はナイ教授とパネルをともにする機会があった。福島第一原発の極度に不安定な様子が、世界中で注目されていた時である。私の顔を見るなり、「本当に心配していたよ」と言って私の手を握ったその手が、やけに固かったような気がした。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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