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【義塾を訪れた外国人】
マハティール・ビン・モハマド:義塾を訪れた外国人

2018/02/02

大国との対峙

マハティール氏は、マレーシアや東南アジアのみならずイスラム世界が直面した厳しい国際情勢にも果敢に立ち向かった。1990年代半ば、アジア諸国と欧米諸国が対峙する出来事があった。「アジア的価値論争」と称された論争は、それぞれの国の政府と社会を巻き込んだ。氏はアジアを代表して調和を重んじるアジア的価値を論じ、欧米的な個人主義と対峙した。その議論には米国の社会的保守主義者から同調者が出てくるほどだった。

1997年にアジア通貨・金融危機がマレーシアを襲った際には、首相であったマハティール氏は国際通貨基金からの厳しい条件がついた融資を撥ねつけ、マレーシア通貨リンギットと米ドルとの固定通貨制を固持した。それがマレーシア国民経済の堅調な回復をもたらした。

2001年米国を襲った同時多発テロ後にはマハティール氏は、イスラム教徒は過激派にあらずとして、イスラム教に関する正しい理解を広めるために世界各国で講演をこなし、非イスラム教徒との仲介役を買って出た。その活動は、2003年10月に政界からの完全引退後も継続した。同時に、米国主導のアフガニスタン戦争やイラク攻撃に対しては、一般庶民を巻き込むとして反対の立場を表明した。ここには氏の絶妙な政治的バランス感覚が見事に現れていた。

〝名誉塾員〟

博士号授与式から10年、マハティール氏は慶應義塾の空間に三たび足を踏み入れた。2014年11月24日、クアラルンプールで東南アジア連合三田会第三回総会が開催された。その際には氏は〝名誉塾員〟として参席された。

御年89歳であることを忘れさせる特別講演「ルック・イースト政策――その重要性と今後の役割」を、小一時間にわたって行った。その話はご自身とマレーシアの歩みを振り返る内容であった。参集した200名以上の塾員のなかには、義塾で学位を取得したマレーシア人も多数参列されていた。

その場に参列していた私は、幸運にも会食時にマハティールご夫妻の横に席を用意していただいた。短くも記憶に残る会話の機会であった。とりわけ、氏が好物のステーキをあっという間に平らげられたのには度肝を抜かれた。

ドクターM

2003年に政界から引退していたマハティール氏ではあるが、2010年代に入ると再び政治的な存在感を増してきた。そこにはマレーシア政治をめぐる危機的状況が反映されている。

話は2009年に遡る。その年首相に就任したナジブは、「1つのマレーシア」をスローガンとして掲げた。これに対して、マハティール氏を筆頭とする与党保守派は批判の声を上げた。加えて2015年に入り、ナジブ首相周辺に政府系投資ファンドをめぐる巨額汚職疑惑が浮上すると、マハティール氏は「民主主義は死んだ」と自身のブログに書き込むなど、激しい政権批判を展開した。それだけにとどまらず、氏は2016年に70年以上にわたり在籍していた政権党から離脱した。こうした氏の確固たる政治姿勢は国民からの支持を呼び寄せた。

卒寿を超えてなお精力的に街頭デモに参加しマイクを握る。時代の流れに敏感であり先を読むドクターM。氏はいまも市井の立場から声を上げ、国民を先導している。

最後に私事。1983年、法学部政治学科1年であった私は、マハティール氏の講演で東南アジア地域研究を目指す背中が押された。後日判明したことだが、私の恩師となった松本三郎先生が125年記念事業の担当常任理事であった。氏へ名誉博士号を授与した2004年、私は法学部教員として講演会の司会をさせていただいた。東南アジア連合三田会では塾員と肩を並べた。マハティール氏と慶應義塾との関係を再現することは、幸いにも東南アジア地域研究者としての歩みを振り返る機会となった。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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