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【義塾を訪れた外国人】
マハティール・ビン・モハマド:義塾を訪れた外国人

2018/02/02

  • 山本 信人(やまもと のぶと)

    慶應義塾大学法学部教授

ドクターM。これは、マレーシアで22年あまり首相の座にあったマハティール氏の呼称である。いまでも親しみを込めてそう呼ばれる。

マハティール氏は、1925年12月20日、マレー半島北部ケダ州アロー・スターで9人兄弟の末っ子として生まれた。53年にシンガポールのエドワード7世医科大学(現マラヤ大学医学部)を卒業すると、医師としての歩みを始めた。64年に地元ケダ州から下院議員として選出されると、政治家としてマレーシアの発展に貢献する途を選択した。その指導力は政権与党内で評価され、74年に教育大臣、76年に副首相を兼務、通商大臣も歴任した。

1981年にマレーシア第4代首相に選出されると、2003年に引退するまで、時にはその強引な手法が批判されながらも、卓越したビジョンと確固たる意思をもってマレーシアの安定と発展を牽引した。対外的にも、マハティール氏は東南アジア諸国連合(ASEAN)の重鎮として、またイスラム協力機構を牽引する立場で、地域政治および国際政治の舞台でもその指導力と存在感は際立っていた。まさに名実ともにアジアを代表する政治家である。

慶應義塾訪問

マハティール氏は、これまで慶應義塾大学三田キャンパスを2回訪れている。1回目は1983年、そして2回目は2004年である。

1983年といえば、慶應義塾が創立125年を祝った年である。この年の11月7日から11日にかけて、記念事業の一環として国際シンポジウム「アジアと日本」が開催された。そこに基調講演者として招聘されたのが、マハティール氏であった。西校舎518教室(現西校舎ホール)を埋め尽くした聴衆に向かい、「マレーシアよ、どこへ」と題する講演で、氏は自身が掲げていた「ルック・イースト」政策を大胆に語った。この政策は、高度経済成長を遂げていた日本(それを日本株式会社と比喩的に呼ぶこともあった)の労働倫理および経済・産業・通商政策を手本として、そこから学べることをマレーシアの発展に役立てるという野心的なものであった。この政策には親日家で知られる氏の本気度が反映されていた。そして、慶應義塾大学を含めた日本の大学や企業はルック・イースト政策を後押しすべく、82年から現在に至るまで数千人の留学生や研修生をマレーシアから受け入れてきた。

2004年6月2日、マハティール氏は再び三田の山に降り立った。慶應義塾大学から名誉博士の称号を受け取る式典に参加し、記念講演を行うためであった。これには裏話がある。慶應義塾は創立125年の際に名誉博士号の授与について打診していたが、マハティール氏側からは首相在任中ではなく、退任後であれば喜んで受ける旨の回答があった。慶應義塾はタイミングを待った。氏は03年10月に首相を退任されていた。その機を捉えて改めて名誉博士号の件を法学部から打診したところ、快諾してくださった。そして厳粛な雰囲気のなか演説館で名誉博士号授与式が挙行されたのである。

1983年に来塾、講演するマハティール氏

ビジョンと実行力

2004年、私たちはマハティール氏の政治哲学と政治姿勢を改めて目の当たりにすることができた。名誉博士号授与式のあと、21年前と同じ西校舎ホールへ場所を移動し、記念講演が執りおこなわれた。800名を超える聴衆を前に、氏は「東アジア共同体と日本の役割」のテーマのもと、21世紀に向かうべき東アジアの姿を熱く語った。そこには、21世紀に入り東南アジアを含む東アジアは世界経済の牽引役であると同時に、国際政治の磁場であるという自負が垣間見られた。そのなかで東南アジアの核であるマレーシアを率いていた氏から、日本とタッグを組んで東アジア共同体を構築しようという呼びかけがあったのである。

実は国際冷戦が終焉を迎える直前の1990年、マハティール氏はASEAN6カ国(当時)と日本、中国、韓国、台湾、香港が共通の経済的課題を協議する場としての東アジア経済会議を提唱していた。ところが、この構想から外されていた米国の反対と日本の不支持があり、実現には至らなかった。歴史は皮肉なものである。それから10年後の2000年、ASEAN10カ国と日本、中国、韓国からなるASEANプラス3が実現した。まさに東アジア共同体が胎動したのであった。

この東アジア共同体をめぐる働きかけは、先見の明をもった政治家としてのマハティール氏を象徴する事柄であった。この他にも1990年代以降、国内的に2つの仕掛けをしていた。1つは、1991年に打ち出した「2020年ビジョン」と呼ばれる、長期開発構想プロジェクトである。その中身は30年後の2020年までにマレーシアを先進国の仲間入りを達成させるというものであった。当初は国内総生産を1990年時点から8倍に伸ばすことを目標に据えていた。97年のアジア通貨・金融危機で計画通りには進まなかったものの、2017年時点で国内総生産は4倍強の成長を達成している。

もう1つは、「2020年ビジョン」への歩みを加速するために、1996年に公表されたマルチメディア・スーパーコリドー構想である。これによって、行政新首都をプトラジャヤへ移転し、首都クアラルンプールとの間の地域を、21世紀に到来する情報通信社会を先取りする地域として開発した。先進国に伍して、マレーシアは高速通信インフラストラクチャーとサイバー法を整備し、電子政府や多目的カードの実現などを目指すアプリケーションの実験と実施に取り組んできた。

2004年、名誉博士号記念講演のため壇上へ向かうマハティール氏
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