三田評論ONLINE

【義塾を訪れた外国人】
ワシリー・レオンチェフ:義塾を訪れた外国人

2017/10/10

伝統的なレオンチェフ・モデル

レオンチェフ教授が創始した投入・産出分析モデルは、モデルの基礎となる部門別原材料(中間財)投入関数の特定化に大きな特徴がある。極めてシンプルな線形関数である。この線形関数のパラメターが部門相互の投入・産出関係を規定する投入係数であり、部門別・財別の投入係数マトリックスが産業部門相互の関係(産業構造)を表す。各投入係数が固定的であるならば、産業部門相互の関係も固定的であり堅固な産業構造が形成される。また、投入係数マトリックスのうち列部門として表記される産業部門の投入係数列ベクトルが、当該産業部門の生産技術を表している。これらの理論仮説が厳密に妥当するのは、おそらく物理的数量単位をもつ物的生産物に限られるであろう。

政策評価と統計資料の推計

このような投入・産出分析モデルは、第2次大戦で疲弊した国々の戦後復興期における復興政策の立案や政策を評価するモデルとして用いられた。特にアメリカ合衆国では、戦時体制から平時の経済体制への移行に際して、平時に必要な各産業部門の供給能力の予測に用いられた。言い換えれば、供給能力からみた新たな平時の産業構造が模索されたのである。なかでも論議を呼んだのは、戦時体制の下で軍需の拡大に応じて大幅に増強されていた「鉄鋼産業」の供給能力について、平時ではさらに大幅な増強が必要であるとの提言がなされたことである。この議会への提言は、レオンチェフ教授が自ら取組んだ投入・産出分析モデルに基づく分析の結果であった。

日本においても、1960年代に国策として掲げられた所得倍増計画と表裏一体の高度経済成長が推進され、強力な産業構造政策が立案され実施された。言うまでもなく投入・産出分析モデルが重要な分析用具とされたのである。その一方で、日本では分析に不可欠な投入・産出表(産業連関表)の推計が1950年代半ば頃から開始された。公式な政府統計としては1955(昭和30)年表が最初である。それに先立って、非公式ではあるが1951(昭和26)年表が試作された。この試作表の推計は当時の若手官僚によってなされたが、なかには直接レオンチェフ教授の指導を受けた留学経験者もいた。特に公式な政府統計としての産業連関表の推計及び理論仮説の検証作業には、義塾の産業研究所の研究者が大きく貢献した。日本の場合、アメリカ合衆国に次いで早い時期に政府統計として産業連関表が推計されたが、時期の早さよりも強調しておかなければならないのは、後年レオンチェフ教授も感嘆したように、大規模かつ詳細な産業連関表が推計されたことである。

語弊を恐れずに言えば、統計資料の推計及び統計調査は実務と見做されている。それというのも、多くの場合、推計値や観測値などのデータがどのようなメカニズムから発生するのか、データ発生のメカニズム(モデル)を勘案することなく作業が進められるからである。しかし、産業連関表の枠組みはそれ自体がモデルを表章しており、モデルの構造を勘案することなく観測値を当て嵌めることはできない。先に述べた投入係数は、投入と産出に関する観測値の比率として推計されるのである。

20世紀を生きた異端の経済学者

レオンチェフ教授と投入・産出分析モデルに因んだ主要な学会が2つある。1つは世界各国の参加を予定した「国際産業連関分析学会」であり、もう1つは日本を中心とした「環太平洋産業連関分析学会」である。ヨーロッパの研究者が発起した国際産業連関分析学会は、国連の統計委員会が主導した国民経済計算体系の枠組みに組み込まれている簡易型産業連関表を重視している。簡易型というのは、過度に統合された部門数で推計されているということである。国民経済計算体系の主要な目的は、マクロ統計としてのGDPを推計することにある。詳細な部門数の産業連関表を推計して、これに基づく投入・産出分析を行うことが目的ではない。この点でレオンチェフ教授とは相容れなかったように思われる。これに対して環太平洋産業連関分析学会にはある種の近親感を持たれていたように思われる。

異端の定義にもよるが、このような学会に対する対応を捉えて教授が異端の経済学者であったとは言えない。

異端性を考えるとき、若き日のレオンチェフ教授がロシア革命の混乱を逃れてドイツに移り、やがて正統派経済学の拠点とされたアメリカ合衆国に招聘されたことを思い起こす必要がある。レオンチェフ教授が招聘された全米経済研究所(NBER)で最初に取り組んだ研究課題は、需要関数の統計的推定問題であったと言われている。同じ時期にミルトン・フリードマン教授が同じ課題に同じ研究所で取り組んでいたというのは、歴史の偶然であろうか。この偶然に端を発して、2人の経済学の巨人は、反発する磁極のように相反する経済学に向かうのである。その後、投入・産出分析の実証研究を受け入れたハーヴァード大学に移ることになったが、その初期の頃の大学院生がポール・サミュエルソンであったという。大学院生の指導にあたっては正統派経済学を受け入れていたようである。ただし、レオンチェフ教授は正統派経済学を否定していたわけではない。検証が困難な、したがって実証可能性に乏しい経済学を認めなかったのである。慶應義塾大学の産業研究所は、このようなレオンチェフ教授の経済学と分析手法に大きく影響され、今日まで受け継いでいる。その意味では異端の研究所と言えるであろう。

ワシリー・レオンチェフ教授は、1906年にロシアで生まれ、ドイツのベルリン大学で学位を取得した後に、若くしてアメリカ合衆国に渡り、1999年に亡くなった。まさに20世紀を生きた異端の経済学者を悼み、ニューヨーク・タイムズ紙は早々に大きな追悼記事を掲載した。以下の英文はその一部である。

When asked how he developed the input-output analysis recognized by his Nobel memorial prize, he would invariably begin,“Oh,itʼs really very simple – what I wanted to do was collect facts.”
The facts he sought were those that explained how segments ofproduction were interconnected.(New York Times February 7, 1999)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

カテゴリ
三田評論のコーナー

本誌を購入する

関連コンテンツ

最新記事