【義塾を訪れた外国人】
ジェラルド・フォード:義塾を訪れた外国人
2017/07/07
大失言
人生の中で、あの時、あんなことは言わなければよかったということは誰にもあるだろう。私の最悪な発言は、ジェラルド・フォード米国大統領に発した次の一言である。「ところで、ベティは良くなった?」。これは、フォード大統領が退任後の1987年10月15日に来塾し、名誉博士号を授与され、政治学科創設90周年記念講演を行い、その後、三田の旧図書館でのレセプション会場に移った時に、私がこんなに気安く話しかけたのである。フォード大統領は、嫌な顔もせず、「ああ、良くなったよ」という返事をしてくれた。後から考えると、穴があったら入りたいような発言をなぜしたのかという理由の説明が、もう少し必要だろう。フォード大統領夫人をベティとファーストネームで呼んでいるが、私はフォード大統領にお会いしたことはそれまでになかった。また、「治ったのか」と聞いたのは、アルコール依存症のことである。どうやら、頭に、アメリカの依存症対策の公共広告がすっかりすり込まれていたようだ。ただし、そのテレビをいつ見たのかはハッキリとしない。
フォード大統領は、1974年8月9日にニクソン辞任の後を受けて、副大統領から大統領に就任している。そして、1976年の大統領選挙ではカーターに敗れたので、77年1月20日までの任期であった。その時期は、ちょうど私がイェール大学に留学していた74-76年とピッタリと重なる。しかし、ベティはその頃、まだ依存症ではないので、テレビで公共広告はなかったはずである。
フォード大統領時代
フォード大統領はイェールのロースクール出身ではあるが、もともと、ミシガン大学時代は全米代表に選出されるほどのフットボールの名選手であった。大統領就任時、フットボールで頭をぶつけすぎたので、脳は大丈夫かと皮肉られた。経歴としては1949年から1973年まで24年間下院議員をしてきたことが主で、院内総務を務めたことが重要である。議会運営がうまい大統領として、ケネディ暗殺後に副大統領から昇格したリンドン・ジョンソン大統領をあげる人もいるが、フォードも基本的には議会の人であった。
「私はフォードでリンカーンではない」というジョークをよく飛ばした。もちろん、政治家同士の比較ではなく、大衆車のフォードと、高級車のリンカーンをかけている。
ここで、フォード大統領時代の背景と、フォードが三田で演説をした1987年当時の日米関係を少し整理してみたい。
現在、マスコミでウォーターゲート事件をもじって、トランプ政権のロシアゲート事件が報じられているが、そもそも、ウォーターゲートとはワシントンD.C.にある建物の名称のことである。ここに民主党本部があったのだが、1972年6月そこに何者かが盗聴器を仕掛けたことが発覚して、その犯人グループがニクソン大統領再選委員会の関係者であることが分かり、最後には、ニクソン大統領の弾劾にまで発展し、弾劾はまぬかれたが、任期途中で、辞任するということになった。
副大統領だったフォードはこの時に大統領に就任する。フォード大統領は、就任1カ月後に、ニクソンが大統領在任中に犯した罪のすべてに特赦をあたえると発表した。このことは、フォード大統領の人気を落とし、1976年の大統領選挙で敗北する理由の1つになる。1974年の中間選挙では、ウォーターゲート事件の影響で、共和党は振るわず、民主党が大勝し、いわゆる「ねじれ」議会が発生する。フォード大統領は、拒否権で対抗せざるをえなかった。そして、共和党内には、レーガンという強力なライバルが控えていた。その意味では、フォード大統領はアメリカ政治史的にはつなぎの役割を担ったということができる。
ウォーターゲート事件と現在のトランプ政権のロシアがらみの捜査妨害などが、きわめて似ていることから、ロシアゲート事件と呼ばれている。弾劾が成立するには、下院が単純過半数の賛成に基づいて訴追して、上院が裁判を行い、上院出席議員の3分の2の多数の賛成で議決をする必要がある。ニクソンの場合には、下院の訴追以前に辞任がなされた。現在の、上下両院は、いずれも共和党が過半数をもっているので、弾劾へのハードルは高いが、米議会は党議拘束がなく個人投票が基本なので、共和党内の反トランプ派の動向が重要となる。
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曽根 泰教(そね やすのり)
慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科教授