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【義塾を訪れた外国人】
ラビンドラナート・タゴール:義塾を訪れた外国人

2017/04/04

慶應義塾とタゴール

ここで、タゴールの来塾を可能にした事情について考えてみたい。その間の経緯を示す直接の資料は見当たらない。状況証拠から、佐野甚之助の仲介があったようである。1905年、タゴールは柔道と日本語の教師をシャンティニケトンの学園に招聘したいと河口慧海(えかい)に相談した。

人選の経緯は不明だが、結果として任に当たることになったのは塾を卒業したばかりの佐野甚之助であった。塾生時分、北海道出身の佐野は、福澤邸の一室を借りて通学しており、大患後の福澤先生の早朝の散歩に加わっていた。さらに先生の三男三八、四男大四郎たちが組織していた修養会、自尊党にも加わっていたことを同じくメンバーだった高橋誠一郎先生が書かれている。

このように福澤先生から親しく学んだ佐野は、渡印して、創設間もないシャンティニケトンで教えたあと、数年インド各地を転々としたようだが、その動静を記しているのが、当時の塾幹事石田新太郎(1870-1927)である。石田は塾の文科出身者で、東京陸軍幼年学校の教頭をつとめるなど、陸軍の教育方面で功績があった。当時は幹事として鎌田塾長の右腕的存在であった。永井荷風を文科教授として迎え、『三田文学』の編集を委ねるのに、陸軍での人脈を生かし、森鷗外の推薦を取りつけるなどの働きをしている。前年の大正5年元旦の名刺交換会の出席者名簿には佐野の名前もあるから、塾と佐野との関係は密接だったはずである。タゴール来日に際して、佐野は歓迎委員を務めている。なお、佐野にはタゴールの長編小説の代表作『ゴーラ』の翻訳もある。

不世出の詩人・万能の芸術家タゴール

タゴールは大正初年に一大ブームを巻き起こし、筆者の学生時代(1960年代)でも、大学生ならだれでもその存在を知る大詩人であった。今日、日本ではほとんど忘れられた存在だが、故郷のベンガル(インドの西ベンガル州とバングラデシュ)では、今でもその文化生活全体に君臨していると言っても過言ではない。

ノーベル文学賞は、タゴール自らが英訳した詩集『ギーターンジャリ(歌の捧げもの)』に対して与えられたが、ベンガル人が異口同音に言うように、英訳よりベンガル語の詩のほうがはるかによい。ドイツでいえばゲーテ、1000年に1人現れるか現れないかの大詩人だと思う。翻訳ではどうにも伝えられない、音の響きの豊かさがある(ただ、先行する時期に流行った叙事詩には手をつけていない)。

詩だけではない。文学のあらゆるジャンル(長編小説、短編小説、戯曲、紀行、論説、随筆、日記、講演記録)で、傑出した作品を産み出している。タゴールが活躍した時代は、ちょうど文語体から口語体への移行期にあたり、そのいずれでも傑作を残している。

さらには自作の戯曲をプロデュースし、主役もみずから務める。詩には曲をつけ、その数は1000曲を超す。ベンガル語でロビンドロ・ションギト、英語でタゴール・ソングと呼ばれるタゴール作詞・作曲の歌を歌うことは中間層、そのうちでもとくに女性の嗜みとまでなっている。劇は多数の歌をふくむ音楽劇もある。舞踊劇のかたちを取る作品もあり、舞踊の指導も行った。こうした歌や舞踊の試みで注目されるのは、インドの古典的伝統と民俗の伝統をともに尊重しながら、いずれの権威にも囚われず自分の感性にあくまで忠実であろうとしたことである。

タゴールは静かな環境を求めたが、政治・経済を含む社会問題に積極的にコミットした。シャンティニケトンの学園の運営、教科書の執筆などの教育事業は、世界の新教育運動の重要な一環をなしていた。また疲弊する農村の再生運動にも取り組んだ。総じて彼の活動は、若いころベンガルのシェリーと呼ばれたように、明らかにロマン派の系譜にあり、それは第1次世界大戦以後の危機のなかで、近代文明に対する鋭い批判となって、ガンディーとともに世界に発せられるインドの良心の声となった。

三田講演の眼目

世界に向かって発信するタゴールの姿勢が鮮明になったのは、日本における講演を通じてだったのである。とくに三田における講演The Spirit of Japan は、秋田雨雀が日記に記したように「帝大のときより調子が高く、立派であった」。この第1次世界大戦のさなかに行われた講演で、タゴールがなにを訴えようとしていたかを最後に要約しておくことにしよう。それはノーベル文学賞を受けたタゴールの「世界詩人」としての責任から生まれた警鐘であった。

この講演でタゴールは「自然の秘術を体得した日本人」を称賛しながら、一方でナショナリズムに突き動かされている日本を明確に批判した。ナショナリズムに根差した世界における一等国の仲間入りを果たしたという自信を深めていた時期の日本人には、この批判は「亡国の詩人がなんの世迷いごとをぬかすか」ぐらいにしか思えなかった。ナショナリズム批判の根にある西欧近代の機械文明や商業主義への危機感は、まだしも共有される基盤はあった。しかし、ナショナリズム批判は受けつけようがなかった。

これは独立運動を行うインドでも同様であり、タゴールのナショナリズム批判は荒野に叫ぶ声であった。この四面楚歌の状況下で、ナショナリズム批判を維持した強靭さは驚嘆に値する。それを支えた根源に思いを致すべきだろう。

ナショナリズムは今日なお私たちに突き刺さる問題である。タゴールの三田講演は読み返される価値があると思う。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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