【義塾を訪れた外国人】
ラビンドラナート・タゴール:義塾を訪れた外国人
2017/04/04
最初の来塾
1913年のノーベル文学賞受賞者、ラビンドラナート・タゴール(1861-1941、母語のベンガル語ではロビンドロナト・タクゥル)は、1916(大正5)年に初めて来日し、三田を訪れている。それも一度ならず、二度も。7月2日に、現在の西校舎の位置にあった旧大講堂で行われた講演会のことは、その講演が現代文明への警鐘を打ち鳴らす問題の書物の一部となったことで知られている。しかし6月13日の最初の来塾のことは、ほとんど忘れられてきた。前年の1月から塾の刊行物として刊行が始まった『三田評論』には、この時のことが、次のように記されている。
「過般来来邦中の印度詩聖タゴール氏は6月13日午前8時半姉崎博士、随員アンドリユ氏等と共に馬車を駆つて義塾に来訪ありしかば塾側にては鎌田塾長、其他諸教授、一行を図書館玄関に出迎へ記念室に案内して茶菓を饗応せりそれよりタ氏は図書館、月波楼、閲覧室等を縦覧し次で階上露台に立ち大学部、普通部、商工学校、幼稚舎各部の学生6千余に向つて満足の微笑を湛へつゝ大要左の如き挨拶を為し再び記念室にて休憩、塾長幹事諸教授等と懇談を交へ、記念帳に署名し同9時学生諸列の間を静々と辞し去りたり」。
学生たちへの短い挨拶は、自ら学園を経営する詩人=教育者の思いがよく伝わるものなので、引用しておきたい。
「かく集へる御身等に見ゆるは、宛ら咲き匂ふ花の麗しきに対する如き感あり。余が青年を好愛して措かざるの性癖より、貴国の到る所に青春の気横溢せる学生諸子に接するに及びて、わが過ぎにし青春時代のいとも懐しく、飜つて日出づる国の繁栄を思ふや切なるものあり。御身等は断じて他人にあらず、否、世界人道のため、共同一致、盡瘁すべきわが最愛なる親友たるなり。希くば益々堅固なる信念を抱き、以て理想に向ひて躍進せられむ事を」。
7月の講演会
7月2日、タゴールはふたたび来塾し、午後4時から行われた講演会に臨んだ。講演会は早稲田大学、日本女子大学と共催の三大学連合の催しであった。鎌田栄吉塾長が司会に立ち、天野為之早大学長が開会の辞を述べたあと、タゴールがThe Spirit of Japan と題して講演を行った。
「縷々数万言に亘る熱烈なる講演」が終わると、成瀬仁蔵日本女子大学長が謝辞を述べて閉会した。大講堂は1,000人ほどの聴衆で溢れ、6月11日の東京帝大講演に劣らぬ盛況であったと朝日新聞は報じた。
東京帝大講演が日本批判を含んでいたため不評であり、タゴール人気は潮が引くように下火になったと言われているが、三田講演会は入場券が手に入らないほどの人気だったのである。1913年ノーベル賞受賞以後のタゴール人気は異常なほどの盛り上がりを見せていたのであり、一方それを冷ややかにみる空気は、タゴール来日前から存在していた。『三田文学』大正5年5月号に、塾の英文学の教授であった野口米次郎(詩人ヨネ野口)は「短編小説家としてのタゴール」と題されたエッセイの冒頭で次のように述べている。
「疾風一陣吹き来つて直に何処かへ吹き去つて仕つたやうな日本のタゴール熱に対して私は遺憾に思つて居る。一時持囃されたやうな絶大な価値はタ氏には無いであらうが、また斯くの如く弊履と捨てられて顧みられないに至る程無価値で無いのも事実である」。
この条件つき評価が知識人の反応だったようである。タゴール人気は、丹羽京子氏が指摘されておられるように、「女性を含む若い世代」(タゴール、丹羽京子訳『日本旅行者』本郷書森、2016、「解説」)に支えられていた。大正生命主義とも関わりが深い大衆文化の走りという文脈でとらえたほうがよさそうである。
事実、タゴールの講演は、今回も鋭い日本批判をふくむものであったが、聴衆は何が話されているかよりも、古聖賢の風格をそなえた詩人の長身の風貌に魅せられたらしい。6月中旬から、タゴールは原三渓の横浜三渓園に滞在していたが、このとき通訳に雇われたのが、後年ボッティチェリ研究家として令名を馳せる若き日の矢代幸雄であった。その回想の筆からも、タゴールの風貌がいかに深い印象を与えるものであったかがわかる。
「タゴールがあの気高い秀でた姿で、半白の渦を巻いた長髪をうしろに垂れ、同じく半白の鬚を長く清風になびかせながら、美しい深い目鼻立ちに、にこやかな笑顔を見せて進まれ、……細い指を揃えて胸の前に合唱された風姿を、私は名画に描いた東方の聖者のように思い出す」(白崎秀雄『三渓 原富太郎』133頁に矢代の回想を引用)。
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臼田 雅之(うすだ まさゆき)
東海大学名誉教授・塾員