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【義塾を訪れた外国人】
アデナウアー:義塾を訪れた外国人

2017/02/02

「過去の克服」と「過去の忘却」

アデナウアーは、しばしば、ユダヤ人との和解を図ったことにより、ナチス時代の犠牲者に対する補償政策に先鞭をつけた、といわれている。つまり、ドイツの「過去の克服」に貢献したと評価されている。しかしながら、他方では、いわゆる「歴史に終止符を打つ」政策(Schlußstrichpolitik)をとり、むしろ「過去の忘却」を推進したとも批判されている。とりわけ、ナチス体制に協力していた公務員・司法官の公職追放やドイツ人自らの手(つまり、連合国などの「勝者の裁き」ではなく、ドイツの司直)によるナチス犯罪の訴追と処罰に対して極めて消極的な姿勢を示していたことは周知の事実である。日本の戦争責任とその処理の仕方をめぐる議論の際に、ドイツはしばしば比較の対象とされ、模範的な例と称揚されることもあるが、その際のモデルとしてのドイツの「過去への政策」は、むしろブラント政権以降の西ドイツであることに留意する必要があろう。

自らナチスの迫害に遭いながら、戦後、このような態度をとっていたことには、幾多の矛盾が混在しているといいうるが、これはまさにアデナウアー流の一種のプラグマティズムの表れであるようにも思われる。ある意味では、アデナウアーは、「非歴史的」な思考を好む傾向があったのかもしれない。彼の演説の中では、歴史的な出来事、すなわち、「過去」を取り上げることは、実際にはほとんどなかった。また、アデナウアーが、前述のとおり、ヒトラーのような独裁者に対して概ね従順な下僕のような姿勢を示していたナチス時代の多くの官僚たちを、戦後の自由民主主義国家体制においてもなお引き続き重用していた(例えば、ユダヤ人迫害の法的根拠となった悪名高きニュルンベルク人種法の注釈を書き、アデナウアーから首相府次官に任命されたハンス・グロプケなど)という事実も、おそらく彼らの「過去」の行動に対して理解を示し肯定的な評価を与えたからではなく、目の前にある「現在」の国家の実務を円滑にこなすことに、もっぱらの関心が向けられていたことによるものであったからなのではなかろうか。

過去の歴史上の人物の行いを現在に生きる者が断罪するのは、いとも容易(たやす)いことである。戦後の混迷を極める政治情勢の中で、一国の舵取りをすることは、極めて困難であったに違いない。そのような意味で、一方で批判されているナチス時代の負の歴史の清算の不十分さとともに、他方で評価されている巧みに国際情勢や外圧を利用して実務的に「過去の克服」に取り組もうとしたアデナウアーの姿勢は、今後ともさまざまな評価の対象になっていくであろう。

アデナウアーの来塾

アデナウアーが最初で最後の訪日をしたのは、米国訪問の帰路の途中で、1960年3月25日から4月1日にかけて行われた国賓としての来日のときであった。その前年の1959年7月に西ドイツの首都・ボンを公式訪問していた日本の首相・岸信介がアデナウアーに日本への招待を申し出たのが切っ掛けとなり、冷戦における米ソ対立が激化する中、安保闘争で揺れる日本での約1週間にわたる滞在が実現したのである。

その最終日にあたる1960年4月1日に、アデナウアーは義塾を訪れ、法学部の推薦に基づき慶應義塾大学名誉博士の称号を授与された。塾内資料によれば、アデナウアーの在塾時間はわずか45分間という異例の短い滞在であった。この日、アデナウアーは長男コンラートと次女ロッテとともに、午前10時に三田キャンパスに到着し、奥井復太郎塾長らの歓迎を受けた。その後、三田演説館で授与式が行われた。ドイツ国民ならびに文化のために貢献したこと、そして義塾の多くの研究者や学生をドイツで受け入れ、支援したことを称え、塾長から名誉学位記を手渡された。引き続き20分ほどの演説を行い、最後に、応援指導部の「若き血」の演奏で見送られながら、義塾に別れを告げた。

演説の中では、名誉学位への感謝の言葉を述べた後、自ら法律家でもあったアデナウアーは「人間の幸福の基礎が何よりもまず常に精神的なものであることを見逃してはなりません。それゆえ私どもは大学や広く学術界に精神科学〔筆者注記:Geisteswissenschaften、人文科学〕のためのしかるべき場を常にあけておく必要があります」と強調し、また、国際社会の秩序は「自然法という地盤の上に基礎をおかれ」なければならないことを力説した。そのうえで、日独関係について、次のように述べた。すなわち、「日独両民族は苛酷な運命の打撃を受けました。しかしみなさまもそして私どもも、勤勉と骨折りとによってその打撃から回復しはじめています。われわれ両民族は多くの共通点をもち、互いに立派に相補っています」として、似て非なる戦後日独の歩みにおける両国の連携の重要性を説いた(演説文の邦訳は本誌588号〔1960年〕に掲載されている)。

この演説の通訳を務めたのは、西ドイツ大使館に文化部長として出向中の裁判官(かつ日本法制史研究者)で東京のドイツ文化センター(現在のゲーテ・インスティトゥート)の設立に関わったヴィルヘルム・ロェールであった。ロェールは、その後、故国へ戻り「独日法律家協会」を設立することになるが、同協会は今や義塾との法学分野における交流において主要な役割を担っている。

また、アデナウアーの来塾のときの義塾側の関係者の中には、塾執行部のほか、福澤諭吉の孫にあたる清岡暎一(当時法学部教授)、そして各学部からドイツ留学経験のある教員が歓迎にあたった。ドイツにとくに縁の深い法学部教員には、峯村光郎や(筆者のゼミの指導教授であった)宮澤浩一なども名を連ねている。アデナウアーが、授与式の際、日独両国の学術交流を深めるために義塾の教授1名を留学生として自国へ招待し奨学金を提供する旨申し出たのも、戦前から義塾教員がドイツに研究留学していたことなどを通じて学問上の交流の基盤が既に構築されていたことを意識してのことであったのかもしれない。

先述のように、アデナウアーの在塾時間は、その生涯にたった一度の、しかも極めてわずかなものであった。そのような意味で、義塾とアデナウアーとの邂逅はまさに一期一会のものである。しかし、この出会いを契機としてよりいっそう強固となった義塾とドイツとの交流は、今日もなお継続している。このような双方向的な交流が、今後とも日独のあらゆる分野で末永く続くことを切望している。

三田演説館を出るアデナウアー、その右に小泉信三元塾長、奥井復太郎塾長。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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