【義塾を訪れた外国人】
アデナウアー:義塾を訪れた外国人
2017/02/02
コンラート・アデナウアー(Konrad Adenauer)は、1949年から1963年までドイツ連邦共和国(旧西ドイツ)の初代首相を務めていた。長いドイツの歴史の中でもたぐいまれな影響力を発揮し、戦後ドイツの基盤を形成した指導者であった。その足跡をたどるまでもなく、日本でも広く知られている歴史的人物であるが、義塾から名誉学位を授与されたことは、三田の山上以外ではさほど知られていないことであろう。
戦前のアデナウアー
アデナウアーは、ビスマルク帝国時代の1876年に、古都ケルンにおいて、職業軍人あがりの裁判所書記官の三男として、決して裕福とはいえない家庭に生を受けた。ボン大学などで法学を学んだ後、弁護士やケルン市の助役などを経て、ケルンの市長に選出された。その後、市長として、ワイマール共和国という、ドイツにとって初の試みとなる共和制民主主義体制のもと、政治家としての経験を積み重ねながら、長年、ケルン市政のみならず、ドイツ国政においても、活発な政治活動を展開した。それは、首相就任を打診されるほどのものであったが、アデナウアーはそれを断り、ケルンの治政に注力し、戦後に義塾の協定校となったケルン大学(1388年設立。ナポレオン率いるフランスによる占領時に閉校)の再建にも主導的に関わっていた。
ナチス時代になると、ヒトラー政権と対立し、市長を罷免され、迫害され、しばらく隠居生活を余儀なくされる。
戦後ドイツの基盤を築いた宰相
敗戦後、ナチス時代の不遇と受難から解放されたアデナウアーは、(高齢にもかかわらず)政界への復帰を果たし、そして、東西に分断されたドイツの西側に新たな国家が成立するやその初代首相に選出された。爾後、保守政党・キリスト教民主同盟(CDU)を支持基盤にして、戦後西ドイツの自由民主主義体制の定着と「西欧化」政策を推し進め、アメリカと西ヨーロッパ、とりわけ、フランスとイギリスという旧敵国との和解を踏まえた強力な政治的・経済的な結びつきを深めながら、西ドイツを自由民主主義陣営の一員にすべく、「西側統合」という戦後西ドイツ外交の基本路線を構築していった。
また、戦後補償に関する施策も意欲的に推進し、とくにイスラエルへの巨額の補償金の支払いなどの政策は世界中の注目を集めた。というのも、捕虜の虐待などのようないわゆる戦争犯罪とは別に、ナチス・ドイツが犯したホロコースト、すなわち、ユダヤ人に対する迫害と殲滅行為(現在ではジェノサイドと称される)という未曾有の大罪をいかに贖罪ないし処理するかが、ドイツが戦後復興および国際社会への復帰を果たすうえで、喫緊の課題となっていたからである。この点、アデナウアーが戦後、隣国ルクセンブルクで行った演説における次の一節が示唆的であろう。いわく、「ナチス時代の数年の間、ドイツ民族が示していた行動を、私は軽蔑していた。しかしながら、1945年以降、私は自分の民族を尊敬する念を再び覚えた」。
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フィリップ・オステン(Philipp OSTEN)
慶應義塾大学法学部教授