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【義塾を訪れた外国人】
サハロフ:義塾を訪れた外国人

2016/06/06

518番教室壇上のサハロフ
  • 小沼 通二(こぬま みちじ)

    慶應義塾大学名誉教授

慶應義塾におけるサハロフ

1975年にノーベル平和賞を受賞したソ連の物理学者アンドレイ・サハロフ(1921─1989)が、1989年10月26日に夫人とともに来塾した。この日サハロフは、10時から三田演説館で行われた名誉博士称号授与式において石川忠雄塾長から慶應義塾大学名誉博士の称号を授与された。引き続き10時40分から1時間半、西校舎の518番教室で記念講演を行い、12時20分から旧図書館大会議室でのレセプションに出て、塾を後にした。

慶應義塾にとって24人目になる名誉博士号授与は、読売新聞の鈴木康雄編集委員から松本三郎常任理事への打診がもとになって、法学部教授会の議を経て大学評議会が決定したものだった。田中俊郎法学部教授が執筆した推薦書には、「優れた科学者であるばかりでなく、権力からの弾圧を受けながらも、不屈の闘志で、長年にわたり世界の平和ならびに国民の人権擁護および社会の民主化を求めて闘ってこられた学者」だと評価されている。

講演は「ペレストロイカとソ連の実情─人民代議員の目を通して─」と題して、米原万里さんの通訳で行われた。サハロフは、ソ連の社会が抱えている問題点として、ゴルバチョフ書記長がペレストロイカ(たてなおし)を始めたことを評価しながら、実際の動きは全く不十分であるとして、過去の間違いや欠陥を語り、これらを克服して進む決意を述べ、西側諸国がソ連の状況を理解することによって協力が可能になると語った。詳しい内容は本誌の1990年1月号に残されている。翌日の新聞には、800人の会場に立ち見の人たちも出た講演に1,000人以上が集まったと書かれている。講演を聞いた私は会場から出る前の立ち話の中で、時間が取れたら物理学教室に来ませんかといったのだが、「今回は、予定がぎっしり詰まっているので、次回来日の時に」と言われた。

サハロフの来日

彼は、読売新聞社の企画「第2回ノーベル賞受賞者日本フォーラム」に招待されて初来日、エレーナ・ボンネル夫人同伴だった。10月25日に成田着、翌日午前の慶應義塾での行事のあと、午後は日本記者クラブで記者会見を行った。27日に帝国ホテルでフォーラムが始まり、午後「ペレストロイカと世界情勢におけるその意義」を講演、質問を受けて「石炭石油の枯渇を考えると原子力を利用せざるを得ない。安全を考えて、すべて地下に」と答えた。夕方のレセプションで海部俊樹首相などに会った。28日には浅草見物のあと、午後の都内の5会場のひとつ平和賞分科会で「ペレストロイカとソ連社会」を語り、質問に答えて「ソ連の水爆は第3次世界大戦突入を防いだ。しかし人類の存続に対する脅威が増大した。紛争の平和的解決が達成されれば核兵器は廃棄できる」と述べた。

29日の日曜日には鎌倉を訪ね、30日午前赤坂仮御所で天皇・皇后両陛下と歓談、午後空路札幌に移動。31日には午前に札幌グランドホテルでおこなわれたパネル討論で「科学の進歩と人類の未来」を語り、11月1日午後は北海道立札幌北高校の人文科学系会場で若者に対して、「青春・ひと・未来」をテーマに語り一連の行事を終えた。

その後、福岡に移動して、3日に「サハロフ特別講演会」で「ペレストロイカと私」の講演。4日には広島で、原爆ドームに折り鶴をささげてから原爆資料館を熱心に見学し、「痛みに胸が締め付けられる。我々がこぞってこのようなことが繰り返されないよう誓わなければならない」と記帳した。この日の午後には、荒木武市長と矢野暢京大教授とのパネル討論「サハロフ博士を囲んで─広島と世界を語る」に出席。

東京に戻って6日、東京大学原子核研究所の核研コロキウムで「ソ連の現状」と題して物理学者に講演。ソ連の科学研究と教育の現状を批判、ソ連社会について暗い見方を示した。日本滞在中に、難民申請者の日本からの強制送還について「海部首相に直訴したい」とまで言ったというサハロフは進行中のペレストロイカについて、人権擁護を軸として熱心に語り続け、8日午前成田から帰国の途についた。

満員の教室に到着したサハロフと夫人。
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