【義塾を訪れた外国人】
ネルー:義塾を訪れた外国人
2016/03/03
1957年10月7日
1957(昭和32)年10月7日午後、三田の山は異様な興奮に包まれていた。旧図書館前の広場は塾生で埋め尽くされた。その数約6,000人。文字通り身動きできぬほどの人だかりであった。図書館2階のバルコニーにその人物が姿を見せると、歓呼の拍手の嵐がわき起こった。
そこにはアジアの盟主であり、インド首相ジャワーハルラール・ネルーの姿があった。178センチの体格に黒い衣装をまとい、ネルー・ハットと呼ばれていた円筒形で頭頂部が平らになっている白い帽子を着用していた。この演説の直前、演説館においてネルーは慶應義塾大学名誉博士号(法学)を授与されていた。
ネルー首相がマイクの前に立つと、熱気に溢れていた観衆は一気に静寂となった。「塾長、尊敬する教授諸氏、若い男女学生のみなさん」と語り始めたネルー首相の一語一句に、観衆は耳を傾けた。ネルー首相の演説は十分ほどの短いものであったが、彼の声だけが三田の山に響きわたった。ネルー首相は塾生に語りかけた。
皆さんこそ明日の日本であり、皆さんのなかにこそ、この国及び世界に対する大きな責任を双肩に担う人々がいる。(「ネルー印度首相の演説—青年こそ明日の日本」『三田評論』574号、昭和32年12月)
独立の闘士から国家の建設へ
ジャワーハルラール・ネルーは、1889年11月14日イギリス領インド帝国北部イラーハーバードで、富裕なバラモン階級の家柄に生まれた。弁護士であった父モティラル・ネルーは、インド国民会議派に属し独立運動の志士として知られていた。幼いながらも、第2次ボーア戦争(1899年〜1902年)でのボーア人の反英闘争、日露戦争(1904年〜05年)での日本の勝利は、ネルー少年にインド独立の夢を強く抱かせる出来事であった。
1905年に渡英したネルーは、10年にケンブリッジ大学トリニティ・カレッジで自然科学を修めたあと、インズ・オブ・コート・スクール・オブ・ローで法学を学び12年に弁護士資格を取得した。その年インドへ戻ったネルーは、父と同様に国民会議派の運動に身を投じた。
ネルーの民族主義的運動は国民会議派での活動といってもよい。なかでも1915年にインドに帰郷したマハトマ・ガンジーと共闘することで、インド独立の道筋を立てた功績は大きい。20年代にはサチャグラハ(非暴力・不服従運動)を展開し、29年12月の国民会議派ラホール大会で「プールナ・スワラジ(完全なる自治)」を宣言すると、30年代前半の民族主義的運動はいわゆる第2次非暴力・不服従運動の時期となった。この間、過激な運動を主導したとして、ネルーは数度にわたり投獄を経験した。30年代後半以降ネルーは、国民会議派議長を務め、戦乱に揺れるヨーロッパの情勢を見極めつつ、インドの独立への道筋を思い描いた。
1947年にインドが英国からの独立を果たすと、ネルーは初代首相に就任し、外務大臣を兼務した。ここからインドという国家建設に乗りだした。政治的には、パキスタンの分離独立という苦い経験をした。国内的には、民主主義的な政治制度を導入し、爾来インドは世界最大の民主主義国家となった。国民会議派が議会での過半数を確保することで、一党優位体制を樹立した。また51年からは経済5カ年計画による経済開発政策を打ちだした。これは公共部門が基幹産業を管理し、国内産業を保護する輸入代替工業化政策であった。
ネルーの外交は非同盟・中立であった。54年には、中国の周恩来首相とのあいだに平和5原則を樹立した。翌55年、インドネシアのバンドンで開催されたアジア・アフリカ会議では、周恩来、インドネシアのスカルノ大統領、エジプトのナセル大統領と並び、ネルーは反帝国主義と反植民地主義を謳い、平和10原則を採択することに成功した。東西冷戦下、第3の道を歩まんとした新興アジア・アフリカ国家の姿勢を世界に誇示した瞬間であった。それは国益を重視しつつも、世界平和の実現に関与するという新しい外交姿勢であった。
ネルーは新興国家としてのインドの政治・経済基盤を固めた。こうした内政と外交面での実績をひっさげ、1957年10月ネルーは国賓として日本の地を踏んだのであった。
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山本 信人(やまもと のぶと)
慶應義塾大学法学部教授